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小字の制定1873(明治 6)年5月1日に「区・番組制」が施行され、鵠沼村は第17大区・第2小区となった。これに伴って小字名と番地が振り当てられることになったのだが、これは大変な作業を強いたと思われる。私の見るところ、それまでの伝統的な地区割りやコミュニティーの形成とほとんど関係なく小字が区分されており、集落名と小字名が一致しているのは「原」と「引地」ぐらいである。「石上」は、「砥上」という古い地名を引っ張り出し、それをわざわざ「いしがみ」と読ませている。平安〜鎌倉時代から集落が形成されていた北西部では、一つの集落が二つに分断されていたり、一つの小字の中にいくつもの集落が含まれていたりする。 当時は無人地帯で、まともな道路さえなかった南東部も、適当に区切って小字が与えられているが、そこにはどのような基準があったのだろうか。上中下に分けた小字名が見られるが、その配列も脈絡がない。日本の地名の上中下は都(京都)を基準に都に近い方を上、離れた方を下とする伝統があった(鉄道の「上り」「下り」にその伝統が見られる))し、地形的な上下(河川の上流・下流)の場合もある。前者の例は「上鰯」「下鰯」で、後者の例は「上岡」「中岡」「下岡」や「上藤ヶ谷」「中藤ヶ谷」「下藤ヶ谷」ということになろうか(藤ヶ谷の場合は、高座・鎌倉郡境が制定された時代の片瀬川の流路について理解する必要がある)。それに、これらが隣接するのである。 地域区分もさることながら、小字名の命名基準にも謎が多い。「八部」なんぞという超難読地名をわざわざ引っ張り出してきた理由が知りたい。長塚(ちょうづか)については、故荒木良正老師の次の文章がある。 「長塚―足利時代には、関東に戦乱が長く続いた。戦争の度毎に戦没者は非常に多かったので、当時の住持は里人と協力して近くに塚を築いて、懇ろに葬った。その塚が幾つもあったので「七塚」と呼んだが、いつか訛って「長塚」となり、今では「長塚(ちょうづか)」と呼ばれている。湘南高校一帯の小高いところがそれである。」 番地番地の割り振りは1873(明治 6)年から1878(明治11)年にかけて行われ、これが地図となって公表されたのは1882(明治15)年のことだという。鵠沼・稲荷・羽鳥・大庭の4か村は、東海道の「引地橋」で境を接しており、各村の1番地は引地橋の袂からスタートしている。鵠沼村の場合、そこから南東方向に向かい、最南東部の片瀬村界の7400番地台まで番地が振られた。ところが、その段階では南東部には無人地帯の砂原や山林が多く、後の別荘地開発などで枝番や番地の振り替えなどがおびただしく生じたり、100番台が振られた西宮腰に突如8000番台の番地が後から振られたりと、一筋縄ではいかない。 この小字と番地は1964(昭和39)年から1982(昭和57)年にかけて行われた新住居表示への切り替えによって消え去ったように見えるが、本籍の表示などに未だに生き残っている。小字名は住区基幹公園(街区公園・近隣公園・地区公園)の名に残っている例が多い。 番地と小字名の関係は原則的に下表のように割り当てられたが、上記のような事情で変更がかなり多い。
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