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納屋の新田小田急線鵠沼海岸駅前商店街「マリンロード」を西へ進むと、「高根」バスターミナルの先で郵便ポストのある三叉路になり、直進すると八部公園前から引地川「作橋」を渡る。右に進むと、左にカーブして道祖神の文字塔が置かれた三叉路に至る。ここでぶつかる道が「浜道」と呼ばれる鵠沼村の古道で、本村の人々が地曳き網に通う道であった。この三叉路は「納屋(なんや、あるいはないや)の辻」といい、明治初期にはこの辻を中心とした6軒の民家があり、この集落を「納屋」と呼んでいた(現在は町内会「堀川郷友会」に属している)。 「納屋」というと、集落地理学を学んだ方ならば、千葉県九十九里平野の「納屋(なや)集落」を想起されるだろう。九十九里平野では海岸から4km程度内陸に本村があり、2km程度の所に新田集落があり、数百㍍程度の所に納屋集落がある。これが見事にいくつも並んで分布しているのである。本村の名前が「○○」ならば、新田集落は「○○新田」、納屋集落の名は「○○納屋」という具合に、同一名称が使われている。納屋集落は、本村や新田の人々が地曳き網用の漁具を置いておく納屋に、やがて定住するようになったと考えられている。 鵠沼の場合は、第0074話で述べておいたように、本村の出村として新田が開かれたのではないと考えられる。その根拠として共通する姓が見られないことを挙げておいた。下図で判るように、新田と納屋の場合も共通する姓は見られない。しかし、この両者のつながりは深そうである。 納屋集落の北端で浜道と分かれて北に向かう細道がある。現在は小田急線の自動車の通れない踏切を渡って、「鵠沼松が岡公園」の前に出る。ここから第0002話で紹介した「新田山砂丘列」の西麓を辿って新田集落に続く道となり、これを「新田道」と呼び慣わしてきた。「鵠沼松が岡公園」の先には「新田宮」と称する小社が祀られていて、新田・納屋両集落の人々が管理している(1950年以来、皇大神宮の境内社となっている)。 両集落の人々の間では、「1855(安政 2)年10月2日の江戸安政大地震(M=7.5震度5.9)の際に、新田の一部住民が納屋に移住した」と伝えられている。 先に紹介した納屋の辻の道祖神文字塔は、1971(昭和46)に建て替えられたもので、それ以前は双体道祖神が祀られていたが、おそらく盗難により遺失した。この双体道祖神は、1773(安永 2)年に新田村醒井氏に造立された旨彫られていた。従ってこの段階で常住集落が形成されていたと見るべきであろう。 『新編相模國風土記稿』にある「其二所は寶曆七年の開闘にして志村多宮檢地す」とあるのが納屋なのであろう。 有賀密夫氏は、「近世の鵠沼村と新田開発」研究調査の中で、新田の旧名主平本家が1878(明治11)年に制作した『鵠沼新田圖繪』により、納屋の新田が現在のどの範囲であったかを判読された。その結果が下図である。この図が平本家によって制作されていたことは、納屋が新田の支配下にあったことを物語るのであろう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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