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第0088話 江嶋道見取繪圖

江嶋道見取繪圖

 『江嶋道見取繪圖』は、藤澤宿から江の島を経て鎌倉に至る道中を描いた絵図である。これは、1800(寛政12)年7月から1806(文化3)年にかけて江戸幕府が制作した『五海道其外分間見取延繪圖』全百三巻之内で、最終段階で制作されたと思われる。『五海道其外分間見取延繪圖』全百三巻は、3部を作って、1部は江戸城内(恐らく紅葉山文庫)に、2部を道中奉行所に置いたという。児玉幸多氏は東京国立博物館にある巻物仕立ての91本は恐らく城内にあったものであろうと推測されている。その中から『江嶋道見取繪圖』が1977(昭和52)年2月1日に東京美術で縮小復刻版が発行された。
 この絵図の中で鵠沼村の部分を見ると、「石上村」と表記されている。石上は鵠沼村の小字だったはずだが、独立した村と認識されていたようである。
 下図はその石上村の部分である。街道の右手中央に横倒しに「石上村」とあり、ここからが石上村ということであろう。その手前に松の木が描かれ、「境松」とある。街道の向こう側の山には「兀山」とある。「高砂」と呼ばれ、江ノ電の停車場名にもなった高い砂丘であろうか。この図では縮小しすぎて読み取りにくいが、手前側の道端に「道印石」とある。これは、この絵図の何か所かにあり、恐らく杉山検校の弁才天道標であろう。全部で48基建てたといわれるもののうち、失われた1基がここにあったと思われる。その左側から手前にくねくね曲がる道が描かれており、「野道」とあるのは細い農道であろう。その分岐点の向こう側には鳥居が描かれ、「庚申塔」とある。現在砥上公園に集められている庚申塔の一つがここにあったのであろうか。その脇からも「野道」が分かれている。このあたりから石上の集落が始まる。はるか上方の松林にある表記は「石上御林」である。手前側の松の脇の鳥居には「稲荷」とある。現在この付近には稲荷はない。その先から2本の細道が分かれ、左側の道には「野道」とある。その分岐点の斜め向かい側の鳥居にも「庚申」とある。手前側の鳥居は「稲荷」だが、現在ここにも稲荷はない。 その左からも「野道」が分かれている。その先で街道は手前に急カーブとなるが、手前の曲がり角にも「道印石」がある。急カーブを曲がりきった左から分かれる道が「大山道」である。これは「江の島裏街道」とも呼ばれ、現在の藤沢橘通郵便局の前から新田の集落を抜け、「右ゑのしまへ」と彫られた橘の辻の庚申塔の先で小田急線踏切を渡り、JRの「一本松踏切」から「(湘南)中学通り」につながる道路であろう。その大山道の脇に「地蔵」とあるのは、鵠沼最古の石仏、「石上地蔵」だろうか。
 さて、ここで街道は川にぶつかって切れる。対岸には「片瀬村」の表記が見られる。川の名は「片瀬川」である。固瀬川でも境川でもない。ここで興味深いのは川に「船橋」と書かれているが、船橋は描かれていないことである。船橋とは、橋を架けるのには費用が掛かりすぎるから、水量がどう変わっても良いように、舟をいくつか並べ、それに板を渡すという方法である。船橋と書かれ、その姿が見えないのは、以前には船橋があったが、この絵図が制作された頃には流失したのだろうか。この絵図制作より後、1833(天保 4)年の記録には石上の渡し船賃、一人5文とあり、渡船場だったことが知られている。この頃は石上から江の島へ直行する船便もあり、大いに流行ったという。
 引用図では途中で切れており、縮小の関係で判読が困難だが、川の中に次の3行の文字が書かれている。
 此川筋九十二里程上武州八王子山々ヨリ流出十町上
 藤澤宿ニテ境川ト唱夫ヨリ鎌倉山ノ内戸部川
 落合二十五町程下ニテ江島海江落ル
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 『江島道見取絵図』全一巻(1977)
 
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