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我棲里『我棲里(我か寿武里 わがすむさと)』は、1830(文政13)年、相模州藤沢駅 小川泰二編輯になる藤澤宿周辺の地誌である。鵠沼村に関しては、次の記述がある。我棲里 巻の中石神大明神渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像なり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る、石神の船渡より越行て、左りに駒立山、右に義経の隠れ井戸あり、往還の馬くらい橋ハ馬鞍置橋なり、おきの反(かへし)切いとなる、此辺ハ、文治のむかし義経腰越の宿にて討手の切脱(ぬけ)、ここに身を逃れし跡とて其名のこれり 我棲里 巻の下神明宮森鵠沼村にあり、森のうちに、神明天照皇太神鎮座まします、当社ハ、むかし奈須与市宗高、元暦の闘ひに扇の的を射る時、一心に天照太神を祈念し奉り、難なく其的を射て落し、誉れを一天にあげしより、常陸国真壁郡に母方の所縁あるに依て茲に太神宮を勧請せりと云伝ふ、その時の弓なりとて、農家に伝来す、また、この森の辺を奈須野とも呼で、この原の雲雀ハ、野州奈須野にひとしくて他所の産よりハ声うるハしく、御片脚短かきを証とするよし、我去ぬる年駿河の駿東郡原の駅に遊びし時、鳥を飼人の物がたりに聞けり 砥上が原 固瀬川の西の海辺すべて砥上が原なり、この地佐々木某殿御預所にて、五ヶ年目にハ御鉄砲、大筒、火箭、地雷火、狼煙等御様(ため)し御用あり、夏百日を限りとす、この事享保年中よりはじまる故に、里俗ハ鉄炮御場所と呼ぶ、むかし西行法師茲を過るに、野原の露のひまより風にさそハれ鹿の声の聞へけれバとありて 柴松の葛のしげみに妻こめて砥上ヶ原に子鹿鳴なり こは西行物語に見ゆ、また為相の歌に 立帰る名残ハ春に結びけん砥上が原の葛の冬枯 また加茂の長明が 浦近き砥上が原に駒とめて固瀬の川を汐干をぞ待 西之土居 往還、台町にあり、当宿西の入口、十二町十七間の端なり、これより西の方、両側坂戸分、御並木北側三百九十四間、此ところ石名坂入口、御支配の堺杭あり、これより引地橋まで、稲荷村分なり、南側同じく坂戸分、御並木九十四間にして、次引地橋まで、鵠沼上村分也、この町屋を車田とよぶ、江の嶌脇道あり、中古まで、台町より車田の辺、多くハ風早とのみ唱へたるや、元政上人の身延紀行に、藤沢のこなた風早といふ処より入りて、龍の口にいたると見へたり 〓城塚 西の土居より南、小高き丘山に松二、三株あり、これを〓城塚といふ、また、この前の窪かなる処を酒盛場と呼伝ふ、この地ハむかし〓城場ありし地といふゆへに、今の車田といふ字も、廓田の誑りなりとぞ、その証定かならず 引地橋 往還にかかる土橋なり、鵠沼・稲荷・折戸・羽鳥四ヶ村の預りなり、橋を渡り、右側すこし稲荷分、養命寺の辺にてハ折戸村なり、左り側四谷まで羽鳥村、この辺すべて大庭の庄と云ふ
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