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第0086話 寺子屋と筆子塚

 寺子屋は、江戸時代に見られた民間の初等教育機関である。寺院が場所を提供し、僧侶が師匠となるケースが一般的だったため、寺子屋と呼ばれるが、神社において宮司が師匠になったり、民家において一般人が師匠となるケースも珍しくなかった。
 小田原市立中学校で教壇に立ち、白山中学校長や小田原市教育研究所長を務められた高田 稔氏(私の大学の大先輩に当たる)は、永年にわたって神奈川県内の筆子塚を調査され、県内の寺子屋の実態について研究を続けられた。その結果は1993(平成5)年、『神奈川の寺子屋地図』(神奈川新聞社)として刊行された。筆子塚とは、寺子屋の教え子(寺子中)たちが建てた師匠の墓である。
 それによると、神奈川県における寺子屋は、江戸時代初期から武蔵国(川崎市・横浜市)に始まり、次第に西に拡がる傾向が見られるという。藤沢市域に初めて寺子屋が開かれるのは、18世紀に入った享保年間らしい。

鵠沼の寺子屋

 鵠沼村の寺子屋はさらに遅く、19世紀に入ってすぐ、文化年間に2つの寺子屋が相次いで開かれた。
 その一つは万福寺を拠点としたもので、檀徒の松本文次郎が師匠を務めた。1829(文政12)年9月、松本文次郎の死去により一旦廃業するが、その年のうちに万福寺の住職が師匠となって再開された。これがいつまで続いたかは不明である。なお、松本家の墓地は万福寺参道の左側にあり、文次郎の墓もあるが、筆子塚ではない。
 もう一つは吉成弥四郎を師匠とするもので、場所は不明である。吉成弥四郎は1833(天保 4)年8月22日に死去し、それによって廃業した。
 さらに、普門寺にも寺子屋が開かれていたらしい。いつ開かれたは不明だが、1872(明治 5)年7月、学制発布により普門寺の物置に「鵠沼学舎」が開校したことによりそれに移行して廃業した。

鵠沼の筆子塚

 万福寺裏手の鵠沼墓地左奥に、鵠沼地区唯一の筆子塚がある。
 1833(天保 4)年8月22日に死去した吉成弥四郎のものである。
 正面中央には「顕光自照信士」の戒名が彫られ、右に「天保四癸巳年」、左に「八月二十二日」とある。台石正面には「筆子中」とある。
 右側面には「俗名」「吉成弥四郎」、左側面には「明治丗五年三月廿四日再建」「施主」「苅田関根吉五郎」と彫られている。
 すなわち、この筆子塚は1844年に建てられ、58年後の1902年に再建されたものである。再建時の施主、関根吉五郎は、最初に建てた時の筆子だったのか、その子孫だったか微妙な時の隔たりである。
 鵠沼墓地の墓は、1943(昭和18)年に日本精工藤沢工場が拡張した際、そこにあった村落墓地の墓をまとめて移転したものである。さすれば、関根吉五郎の寺子屋は宿庭あたりにあったのだろうか。
 藤沢市北部の筆子塚は市の史跡に指定されているものもあるが、鵠沼の筆子塚には、案内板も建てられていない。
鵠沼地区寺子屋関係年表    
西暦 和暦 記                        事
1804 文化 1 文化年間に鵠沼村に2か所(松本文次郎:万福寺・吉成弥四郎:場所不明)の寺子屋開業
1829 文政12 9   松本文次郎による万福寺の寺子屋、廃業
1829 文政12 万福寺の寺子屋、住職を師匠として再開
1833 天保 4 8 22 寺子屋師匠=吉成弥四郎、没→寺子屋廃業。戒名=顕光自照信士。筆子らが筆子塚を建てる
1872 明治 5 7 12 鵠沼学舎、鵠沼普門寺脇の寺の物置を校舎に開設→普門寺の寺子屋(開始不明)廃業
1902 明治35 3 24 苅田の関根吉五郎、天保4年の顕光自照信士(俗名=吉成弥四郎)の筆子塚を再建
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高田 稔:『神奈川の寺子屋地図』(1993)
  • 藤沢市教育委員会:藤沢市教育史 史料編 第一巻
 
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