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初期新田開発『新編相模國風土記稿』に「今御料の地は延宝六年八月、成瀬五左衛門検地す。外に新田三所あり、其の一は享保七年墾闢し、日野小左衛門改め、其の二は宝暦七年の墾闢にして志村多宮検地す。其の余は布施孫之進の采地にして、延宝七年一一月先祖孫兵衛検地し、其の後開墾の地あり、元文元年以来新田知行となる。村内空乗寺領九石交れり」とある。これらは検地の記録であって、それぞれの新田がいつどこで開発されたかについては記されていない。 有賀密夫氏の調査により、初期の新田開発については、大庭折戸村の川嶋家の文書に「相州鵠沼普請、拾九年以前未年、取立申候ニ付」とあり、明暦元年未年に布施氏知行地に鵠沼新田が完成したことが突き止められた。同書には用水堀開鑿潰れ地の替地につき、鵠沼村領主が村役人に手形を発行したことも記されている。 鵠沼村の東西には、境川(片瀬川)と引地川が流れているが、新田開発用地として残されている土地は河川から離れ、標高も高い砂丘地であるため、村内の河川から直接引水することもできなかったし、川名村や片瀬村のように谷戸に溜め池を造れるような地形でもなかった。しかも保水力のない砂地である。 従って、農業用水を得ようとすれば、水車を設置するか両河川の上流部に取水堰を設けて引水するしかない。 上記の川嶋家の文書に「1672(寛文12)年、鵠沼村布施領・大橋領の名主ら、大庭村の引地川に新田引水用の堰を再建」とある。「再建」だから、その前にも取水堰が建設されたはずだが、その記録は見られない。 他村域に造らせてもらうわけだから、大手を振って「我田引水」というわけには行かない。「出水事故があったら、堰を壊してもいいですよ」というような一札を入れて恐る恐る造らせてもらうのだ。 従って、いくつかの水争いの記録が残っている。鵠沼新田の場合、さらに上流の円行村に造らせてもらったりしているし、最終的には1713(正徳 3)年に引地川より水車で水を汲み上げ、新田を開きたいとしている。この場合も引地川は羽鳥村との境界を流れているから、相手の村の名主に通知する必要があった。 新田とは「新田」と書くと、水田すなわち水稲を栽培するための耕地のように思われるかも知れない。農業用水についていろいろ述べたので、ますますそう思われても仕方がない。 鵠沼新田の場合、砂丘間低湿地のように、よほど地形的に恵まれていない限り、水田開発は行われなかったと思われる。そのほとんどは麦類や雑穀、野菜類を栽培する普通の畑地だったに違いない。 保水力のない洪積台地の相模野や武蔵野の新田開発も同様である。 17世紀後半から18世紀前半に至る鵠沼新田は、現在の鵠沼橘二丁目の旧小字新田に集落があり、耕地はおそらく現在の藤沢駅南部から鵠沼中学校あたりと思われる。 新田を開発した人々は、鵠沼本村すなわち大庭御厨以来の伝統を守る皇大神宮の氏子集落からの出村ではなく、全く別の地域から集められたに違いない。 なぜなら、名主=平本家をはじめ、滝澤、八木、杉浦(2軒)、関野、吉澤と、本村と共通する姓がないからである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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