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第0074話 初期新田開発

初期新田開発

 『新編相模國風土記稿』に「今御料の地は延宝六年八月、成瀬五左衛門検地す。外に新田三所あり、其の一は享保七年墾闢し、日野小左衛門改め、其の二は宝暦七年の墾闢にして志村多宮検地す。其の余は布施孫之進の采地にして、延宝七年一一月先祖孫兵衛検地し、其の後開墾の地あり、元文元年以来新田知行となる。村内空乗寺領九石交れり」とある。
 これらは検地の記録であって、それぞれの新田がいつどこで開発されたかについては記されていない。
 有賀密夫氏の調査により、初期の新田開発については、大庭折戸村の川嶋家の文書に「相州鵠沼普請、拾九年以前未年、取立申候ニ付」とあり、明暦元年未年に布施氏知行地に鵠沼新田が完成したことが突き止められた。同書には用水堀開鑿潰れ地の替地につき、鵠沼村領主が村役人に手形を発行したことも記されている。
  鵠沼村の東西には、境川(片瀬川)と引地川が流れているが、新田開発用地として残されている土地は河川から離れ、標高も高い砂丘地であるため、村内の河川から直接引水することもできなかったし、川名村や片瀬村のように谷戸に溜め池を造れるような地形でもなかった。しかも保水力のない砂地である。
 従って、農業用水を得ようとすれば、水車を設置するか両河川の上流部に取水堰を設けて引水するしかない。
 上記の川嶋家の文書に「1672(寛文12)年、鵠沼村布施領・大橋領の名主ら、大庭村の引地川に新田引水用の堰を再建」とある。「再建」だから、その前にも取水堰が建設されたはずだが、その記録は見られない。
 他村域に造らせてもらうわけだから、大手を振って「我田引水」というわけには行かない。「出水事故があったら、堰を壊してもいいですよ」というような一札を入れて恐る恐る造らせてもらうのだ。
 従って、いくつかの水争いの記録が残っている。鵠沼新田の場合、さらに上流の円行村に造らせてもらったりしているし、最終的には1713(正徳 3)年に引地川より水車で水を汲み上げ、新田を開きたいとしている。この場合も引地川は羽鳥村との境界を流れているから、相手の村の名主に通知する必要があった。

新田とは

 「新田」と書くと、水田すなわち水稲を栽培するための耕地のように思われるかも知れない。
 農業用水についていろいろ述べたので、ますますそう思われても仕方がない。
 鵠沼新田の場合、砂丘間低湿地のように、よほど地形的に恵まれていない限り、水田開発は行われなかったと思われる。そのほとんどは麦類や雑穀、野菜類を栽培する普通の畑地だったに違いない。
 保水力のない洪積台地の相模野や武蔵野の新田開発も同様である。
 17世紀後半から18世紀前半に至る鵠沼新田は、現在の鵠沼橘二丁目の旧小字新田に集落があり、耕地はおそらく現在の藤沢駅南部から鵠沼中学校あたりと思われる。
 新田を開発した人々は、鵠沼本村すなわち大庭御厨以来の伝統を守る皇大神宮の氏子集落からの出村ではなく、全く別の地域から集められたに違いない。
 なぜなら、名主=平本家をはじめ、滝澤、八木、杉浦(2軒)、関野、吉澤と、本村と共通する姓がないからである。
鵠沼地区新田関係年表    
西暦 和暦 記                        事
1655 明暦 1 4 21 布施氏知行地に鵠沼新田完成
1672 寛文12     鵠沼村布施領・大橋領の名主ら、大庭村の引地川に新田引水用の堰を再建
1673 寛文13 4   鵠沼村・大庭村間の水論。大庭村が奉行所へ返答書を提出(鵠沼新田の用水堰切開に関して)
1683 天和 3 4 5 鵠沼新田(市郎左衛門)開発の後、用水堀の件で円行村(八郎左衛門)と争論起こる
1695 元禄 8 3 3 鵠沼新田名主=(平本)伊右衛門(眞如院日實 俗名権兵衛)、没[平本家墓標]
1697 元禄10 8   鵠沼新田名主=(平本)伊右衛門の妻(法性院日相信女)、没[妙善寺過去帳]
1704 宝永 1     荒れ地状況、鵠沼村=7.2%、鵠沼見取新田=31.2%[相州鎌倉高座郡村々申御年貢割付帳]
1713 正徳 3 12 19 鵠沼村新田、引地川より水車で水を汲み上げ、新田を開きたいと羽鳥村名主に通知
1715 正徳 5 9   鵠沼橘2-13-16地先鵠沼橘の辻の庚申塔、造立
1732 享保17     鵠沼新田第1期開闢。代官日野小左衛門改め[新編相模國風土記稿]
1736 元文 1     旗本布施氏知行地の新規開発分、新田知行となる[新編相模國風土記稿]
1742 寛保 2 1 2 新田名主=(平本)「遥照院英梛庶m」、没[妙典寺過去帳]
1756 宝暦 6     代官=志村多宮、鵠沼村に新田検地施行
1757 宝暦 7 6 30 新田名主=(平本)「善性院宗悦日眞」(俗名五良兵衛)、没[平本家墓標]
1757 宝暦 7     鵠沼新田第2期開闢。代官志村多宮検地[新編相模國風土記稿]※前年説あり
1773 安永 2 11 鵠沼海岸7-16-17地先納屋の双体道祖神像、造立(新田村醒井氏。現在所在不明)
1779 安永 8 9   鵠沼橘2-14-9地先の双体道祖神像、造立(現在所在不明)
1830 天保 2     『新編相模國風土記稿』、刊行。元文元年の布施氏新田知行について記す
1836 天保 7 10   代官=江川太郎左衛門英龍、鵠沼村字地蔵袋地先の鉄炮場新田3町4反4畝余を開発
1855 安政 2 10 2 江戸安政大地震(M=7.5震度5.9) 藤沢宿も潰家多数。→新田の一部住民、納屋に移住(伝)
1856 安政 3 11 納屋の辻の道祖神塔(双体神像)、造立(遺失盗難?→1971文字塔再建)
1878 明治11 12   平本家『鵠沼新田繪圖』制作(長さ=176cm 幅=110cm 和紙上に田・畑・山林別に着色)
1950 昭和25 8 20 新田宮、知事の認可で皇大神宮の境内社となる
1964 昭和39     新田宮前の新田道に沿った農業用水路、暗渠化
1971 昭和46 1 14 鵠沼海岸7-16-17地先納屋の道祖神塔(文字塔)、造立
1998 平成10 2 新田宮賛助会、境内に水神の石碑を造立
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 有賀密夫「近世の鵠沼村と新田開発」『わが住む里』第25号(1992)
 
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