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第0072話 近世の火山災害

 宮崎県はこの1年の間に、昨(2010)年5月の口蹄疫、今(2011)年1月の鳥インフルエンザに加えて新燃岳の大噴火と、三重の災害に見舞われた。
 ことに、新燃岳噴火の映像は、記憶に新しいところである。
 江戸時代を通じて鵠沼村の人々に大きな影響を与えた火山活動には、富士山の宝永噴火と浅間山の天明噴火があった。

富士宝永噴火

 1707(宝永4)年10月28日、東海地方はM=8.7の宝永地震に襲われ、建物の倒壊や津波により多数の犠牲者が出た。富士山南東麓の現在の静岡県裾野市須山の記録によれば、この地震の後,富士山の山中では1日に10〜20回の体に感じる地震が発生した。12月15日午後からは富士山麓でも体に感じる群発地震が始まり、15日夜からはさらに広い範囲で地震が感じられるようになった。
 12月16日の午前中には2度の大地震があり、2度目の地震直後の午前10〜12時ころ、富士山南東斜面の森林限界付近から噴火が始まった。最初はすさまじい音とともに黒雲が火口上空に立ち上り、火口から約10km 以内の地域には、最大で20〜30cmの大きさの火砕物が噴煙から落下して四散し、その内部から高温のガスが噴き出して出火し、萱ぶき屋根の家屋などが燃えた。この時の噴出物は白色の軽石で、軽石は午後4時頃まで噴出した。その後、噴火はいったん収まったものの夜に入り再開し、火口からは火柱が上がり火山弾や黒色スコリアが噴出した。この間の一連の噴火で火口から東北東に約10km 離れた現在の静岡県小山町須走では家屋の約半数が焼失した。噴火は17日の朝6〜7時頃少し治まった。
 このような噴火の様子は、火口から約100km 離れた江戸でも確認された。噴火開始直後、富士山上空に青黒い山のような噴煙が確認されるとともに、爆発にともなう空振で江戸の町中でも戸や障子が強く振動した。噴煙は偏西風により富士山上空から東方に流され横浜方面に達し、その後、噴煙の一部は横浜の北東側に位置する江戸方面に広がった。江戸は午後1時頃から噴煙におおわれて暗黒になり、灰色の火山灰が降り出した。夜に入ると灰色の火山灰は黒色の砂へと変わり、この砂は夜半には降り止んだ。
 噴火は17日の夕方前から再び活発化し、規模はやや小さくなったものの、20日の朝までに山麓には直径数cm のスコリア質の火山礫を、江戸には粟粒大の黒色の火山砂を降らせた。20日の朝以降は小規模な噴火が断続的に続いた。
 噴火活動は12月25日の午後3時頃に再び活発化し、やや規模の大きな噴火が27日の夜半まで続き、江戸でも27日まで降灰した。その後、噴火活動はしだいに終息にむかい、31日に麓から火山弾が噴出する様子を見えたのを最後に噴出物の放出は終了し、1708年1月1日未明(午前4時頃)の爆発音を最後に一連の噴火は終了した。

 この噴火における鵠沼村の様子を記した具体的な記録には接していないが、伊勢神宮の神宮使一行が小田原に向かう東海道の途上で、藤沢付近でこの噴火に遭遇している。『外宮子良館日記』に、「藤澤ニ至ル頃振動シ、次第ニ強ク鳴テ石ヲ降ス。其石焼テ甚軽シ。茶店ニ入テ暫窺見ニ、往還ノ旅人其辺ノ男女驚キ噪グ事甚シ」とあることから、スコリアは鵠沼村にも降下したであろう。

 「相模・武蔵・駿河各国に降砂被害甚大、藤沢も降砂16日間」という記録もあり、これによる各河川への影響は翌年5月頃まで重大な被害を与えた。
  • 引地川
    • 大和引地川 宝永五年五月 水源埋没による干害(平常時)水田埋没
    • 大庭村 宝永五年四月 用悪水埋積
    • 羽鳥村 宝永五年五月 用悪水埋積田畑冠水
  • 境川
    • 藤沢 宝永五年五月 河床上昇
  • 江の島
    • 江の島 宝永五年 閏正月 磯の荒廃

浅間山天明噴火

 浅間山の1783(天明 3)年の噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事だった。
 噴火は旧暦4月9日(5月9日)に始まった。激しい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続いた。噴火は次第に激しさを増し、7月1、2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどだった。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりした。7日から8日にかけての噴火はとくにすさまじく、烈しいゆれで山麓の家々は戸や鍵もはずれ、雷鳴稲妻がすさまじかったという。午後4時頃、火口から黒煙がおしだし、黒豆河原一帯を焼きはらい埋めつくした。これは火山弾と火山灰が一団となって流れ下った火砕流だった。高温のため中央部はとけて固まり溶岩のようになっている。8日(8月5日)の明け方少しおさまったものの、午前から再び烈しくなり、午前10時、真っ黒な柱が吹き出すと見る間もなく鎌原の方へぶつかるようにとびだしました。これは巨大な火山弾をまじえた火砕流で、山腹に沿ってなだれ落ちてきたものと思われます。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下ったと考えられる。浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができた。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没した。このため鎌原では住民597人の内466名が死に、助かった人はわずか131名だった。
 この噴煙は偏西風に乗って全世界に拡がり、大きな影響を与えた。「天明の大飢饉」である。
近世の関東南部に関連する火山活動    
西暦 和暦 記                        事
1707 宝永4 11 23 富士山噴火、宝永山出来る、相模・武蔵・駿河各国に降砂被害甚大、藤沢も降砂16日間
1708 宝永 5 10 12 富士山宝永噴火の堆砂で境川河床上昇
1721 享保 6 6 22 浅間山 犠牲者15 噴石による
1783 天明 3 8 5 浅間山 犠牲者1,151 火砕流、土石なだれ、吾妻川・利根川の洪水による
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用・参考文献]
  • 宮地直道・小山真人:「富士火山1707年噴火(宝永噴火)についての最近の研究成果」『富士火山』(2007)
  • 角谷ひとみ・井上公夫:「富士山宝永噴火(1707)後の土砂災害」『歴史地震』第18号(2002)
  • 震災年表(神奈川県内主に)「孝安年代一昭和5年」『鵠沼』第50号(1989)
  • 国立天文台:『理科年表』
 
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