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鵠沼地区唯一の史跡これまで述べてきたように、鵠沼地区の1000年を超す歴史の中で、様々な史跡が遺されてきた。しかし、公的に「史跡」と指定されているものは、鵠沼神明の空乗寺墓地中央部にある大橋重政夫妻の墓碑のみである。大橋重政とは、既に第0062話で紹介したように、江戸時代初期にわずか二代、56年間ほど鵠沼村の半分を知行した徳川幕府の右筆を務めた旗本の二代目である。 大橋重政が開いたのが「大橋流」という書道御家(おいえ)流の一流派である。松花堂昭乗(しようかどうしようじよう)の書風に発し、重政が江戸幕府の右筆であったことから、公文書にこの流派の書が多い。 墓碑建立の由来大橋重政の長男が大橋重好だが、彼は右筆にはならずに大番から小普請になるなど、幕府の不評をかったらしい。重政が没すると、鵠沼等の采地500石は上知(お取り上げ)となり、江戸屋敷に住んだ。しかし、父の墓所である空乗寺との関係は続き、1704(宝永元)年、父の33回忌にあたり、重好は兄弟とはかり、空乗寺の霊前に父母の墓碑を建て、常夜灯一対をささげたのである。 寺領を賜った空乗寺は、大橋重政の恩義を忘れず、代々この墓所を大切に守ってきた。 重政が興した書道「大橋流」の門弟たちも流祖の供養を忘れず、1871(明治4)年の200回忌、1971(昭和46)年の300回忌には多くの門弟が空乗寺に集った記録がある。 なお、空乗寺の現住職二十六世大橋信明師は、姓は同じだが旗本大橋家との関係はない。
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