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第0071話 大橋重政墓碑

鵠沼地区唯一の史跡

 これまで述べてきたように、鵠沼地区の1000年を超す歴史の中で、様々な史跡が遺されてきた。
 しかし、公的に「史跡」と指定されているものは、鵠沼神明の空乗寺墓地中央部にある大橋重政夫妻の墓碑のみである。大橋重政とは、既に第0062話で紹介したように、江戸時代初期にわずか二代、56年間ほど鵠沼村の半分を知行した徳川幕府の右筆を務めた旗本の二代目である。
 大橋重政が開いたのが「大橋流」という書道御家(おいえ)流の一流派である。松花堂昭乗(しようかどうしようじよう)の書風に発し、重政が江戸幕府の右筆であったことから、公文書にこの流派の書が多い。 

墓碑建立の由来

 大橋重政の長男が大橋重好だが、彼は右筆にはならずに大番から小普請になるなど、幕府の不評をかったらしい。重政が没すると、鵠沼等の采地500石は上知(お取り上げ)となり、江戸屋敷に住んだ。
 しかし、父の墓所である空乗寺との関係は続き、1704(宝永元)年、父の33回忌にあたり、重好は兄弟とはかり、空乗寺の霊前に父母の墓碑を建て、常夜灯一対をささげたのである。
 寺領を賜った空乗寺は、大橋重政の恩義を忘れず、代々この墓所を大切に守ってきた。
 重政が興した書道「大橋流」の門弟たちも流祖の供養を忘れず、1871(明治4)年の200回忌、1971(昭和46)年の300回忌には多くの門弟が空乗寺に集った記録がある。
 なお、空乗寺の現住職二十六世大橋信明師は、姓は同じだが旗本大橋家との関係はない。
大橋重政年譜
西暦 和暦 事                      項
1617 元和 3 鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門重保知行地となる
1618 元和 4 大橋重政、大橋重保の長男として生まれる。幼名小三郎 通称長左衛門
1627 寛永 4 重政、はじめて将軍家光に目見え。10歳
1631 寛永 8 重政、家光の右筆となる。14歳
1633 寛永10 重保、病により右筆を辞す。剃髪して龍慶と号す
1634 寛永11 重政、家を継ぐ。鵠沼等の采地500石
1639 寛永16 9 18 重政の書道の師松花堂昭乗、没。56歳
1640 寛永17     大橋重好、重政の長男として誕生
1641 寛永18 12 大橋龍慶(重保)豊島郡放生会寺の縁起2巻を撰し子重政これを書く
1642 寛永19 重政、牛込の神木の榎が大風で倒れ、同木で龍慶寿像製作を発願→彫刻:藤原真信
1642 寛永19 5 龍慶像完成→誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置
1649 慶安 2 8 28 大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜る
1657 明暦 3 7 大橋重政の長男重好、はじめて将軍家綱に拝顔。18歳、幼名を重吉。新五左衛門と称す
1665 寛文 5 9 23 重政、寺社領御朱印の労により賞を受く
1667 寛文 7 5 16 重政、日光山における家光の法会にあずかって褒賜に浴す
1667 寛文 7 7 重好、幕府の大番となる
1669 寛文 9 12 重好、廩米200俵を給されたが、間もなく小普請になる
1672 寛文12 6 30 大橋重政、病により没す。寿55、龍性院殿道樹居士と謚して空乗寺に葬る
1672 寛文12 重好、家督を嗣いだが、幕府の不評をかったらしい
1672 寛文12 大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領(代官成瀬五左衛門重治)となる
1704 宝永元 6 30 大橋重政33回忌。重好、空乗寺の霊前に父母の墓碑を建て、常夜灯一対をささげる
1755 宝暦 5 大橋流を継承した篠田行休が「大橋流初学当用集」を日本橋宗文堂から上梓
1871 明治 4 6   大橋重政200回忌、空乗寺にて供養。多くの門人が集う
1965 昭和40 5 31 空乗寺大橋重政夫妻の墓を藤沢市の文化財として「史跡」に指定
1966 昭和41 12 『藤沢市文化財調査報告第3集』藤沢市教育委員会編、空乗寺に関する事項を掲載
1971 昭和46 11 大橋重政300回忌、空乗寺にて供養
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市教育委員会:『藤沢市文化財調査報告書第3集』(1966)
  • 伊藤節堂:「大橋流書法の祖大橋重政に関する年表」『鵠沼』第24号(1985)
  • 大橋円明:「空乗寺について」『鵠沼』第37号(1987)
 
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