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第0058話 砥上から石上へ

砥上と石上

 鵠沼と思しき地域の呼称としては、奈良時代、正倉院に納められた『相模国封戸租交易帳』に出てくる土甘郷であるということは、第0027話で述べた。
 土甘の読みだが、「つちあま」という説もあるけれど、多くは「とかみ」「とかめ」「とがみ」と読むとしている。「とがみ」ならば、鎌倉時代に出てくる「砥上ヶ原」につながると書いておいた。
 江戸時代の鵠沼には14の集落名が記録されているが、そのうち平安末期の大庭御厨鵠沼郷と『天養記』に出てくる範囲は、現在皇大神宮例大祭に人形山車を出す宮ノ前、上村(かむら)、宿庭(しゅくにわ)、清水、苅田、大東、仲東(なかひがし)、原、堀川の9集落だったと思われる。江戸初期に東海道が整備されると、引地、車田が形成され、江戸中後期の新田開発によって新田(しんでん)、納屋(なんや)が形成された。
 残る一つが石上(いしがみ)である。
 石上の地名の初出は1285(弘安 8)年2月2日の『吾妻鏡』にある「石上郷、鎌倉の法華堂領となる」という記録だという。すなわち、鎌倉時代中期には石上郷が形成されていたことになる。
 石上郷は、固瀬川の渡津(としん)集落として発生したと考えられる。平安時代までは、このルートの交通量はさほど多くはなく、鎌倉初期に至っても、鴨 長明の「浦近き砥上が原に駒とめて固瀬の川の潮干をぞ待(まつ)」の歌でも知られるように、下流部で干潮を待って馬または徒渡りをしていたとも考えられる。
 鎌倉に幕府が開かれると、上方(かみがた)と結ぶルートの交通量が格段に増え、鎌倉の入口に当たる固瀬川の渡河は重要な問題となった。石上というポイントは、このすぐ下流で西へ大きく、かつ複雑な曲流があったため、そのすぐ上流部に渡船が設けられるようになった
 『皇国地誌』には、天正期に「固瀬川砥上渡しが石上渡しと呼ばれるようになる」とある。すなわち、それまでは「砥上渡し」と呼ばれていたらしい。「砥上」の読みについては、ルビを振っていないので、正確なところは判らないが、わざわざ別の漢字を用いてあるということは、「とがみ」なのだろう。それまでは、郷名は石上、渡しは砥上だったのだろうか。
 1873(明治6)年5月1日に鵠沼村は28の小字に分けられるが、この時に石上集落の地域は「砥上」と書いて「いしがみ」と読むようになった。この小字名は1980(昭和55)年 8月29日の住居表示が鵠沼石上一丁目〜三丁目と制定されるまで続いた。現在、この小字名は「砥上(いしがみ)公園」にわずかに残っている。
石上地区年表    
西暦 和暦 記                        事
1285 弘安 8 2 22 石上郷、鎌倉の法華堂領となる
1573 天正期     この頃から固瀬川砥上渡しが石上渡しと呼ばれるようになる[皇国地誌]
1649 慶安 2 8 28 地頭大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜る
1654 承応 4 5 石上の地蔵菩薩立像、造立(鵠沼最古の石仏。昔は石上の渡し場近くにあった)
1690 元禄 3     空乗寺5世了慶、領内の石上明神(江ノ島寺上ノ坊別当了音院支配)に畑3反余を寄付
1775 安永 4 7   空乗寺寺領(石上)内の渡船場の件につき村内に争論[市史]
1833 天保 4     境川石上の渡し船賃、一人5文
1873 明治 6 6 2 鎌倉道片瀬川の渡船を廃止し、架橋することについて神奈川県より大蔵省へ伺い
1873 明治 6 10   境川、石上渡しの箇所に「山本橋(後に上山本橋)」、初めて架橋[皇国地誌]
1895 明治28 6   若尾幾造、鵠沼村石上に盛進社若尾製糸場始業(釜数=200、藤沢地域では最大の工場)
1896 明治29 4 21 石上神社を境川沿いの低地から現石上駅南東方に移転。標示石、造立
1902 明治35 9 1 江之島電気鉄道藤沢片瀬間営業運転開始 石上停車場開設
1917 大正 6 5 10 鵠沼地内(上山本橋〜石上〜鵠沼停留所〜海岸)の道路開通式高瀬邸内で開催
1920 大正 9 4 1 江之島電気鉄道、高砂(たかすな、現・石上。石上 - 川袋間)停留所新設
1929 昭和 4     石上神社の本体たる神銘を刻んだ石塔が片瀬の浜辺に置き捨てられていたものを神社に戻す
1931 昭和 6 4   鵠沼石上2-3-7石上神社の嗽水盥、造立
1934 昭和 9 8 7 石上神社、南部低湿地から集落中央に移転[(石上神社移転)記念碑]※明治29
1934 昭和 9 9 1 江ノ島電気鉄道、藤沢駅東口〜鵠沼海岸〜石上間(5.1km)の乗合自動車運輸開始
1934 昭和 9 11 20 (石上神社移転)記念碑造立、現在は鵠沼 2232(鵠沼石上2-3-7)石上会館隣に移動
1936 昭和11 3   広田弘毅の首相就任を受け、石上から広田弘毅別荘までの道路アスファルト舗装
1944 昭和19 6 30 江ノ島電気鉄道、石上・高砂・柳小路の各停留所、戦時中閉鎖。川袋停留所に統合
1951 昭和26 6 1 市立藤沢保育園、鵠沼石上1-11-5に開設
1953 昭和28 3 9 江ノ島鎌倉観光、乗合自動車石上線を廃止
1960 昭和35 2 26 藤沢駅前南部土地区画整理事業、着工
1967 昭和42 4   藤沢保健所、藤沢市鵠沼2168から鵠沼石上2-7-1(藤沢合同庁舎2階・3階)に移転
1967 昭和42 6 1 神奈川県合同庁舎(鵠沼石上2-7-1)、落成
1967 昭和42     市立藤沢保育園(鵠沼石上1-11-5)、認可
1974 昭和49 6 7 江ノ電、藤沢高架線、藤沢新駅に乗り入れ。藤沢-石上間高架線になる
1974 昭和49 6 27 イトーヨーカドー藤沢店、鵠沼石上1-10-1に開業
1977 昭和52 11 南部土地区画整理事業により石上神社社殿・鳥居建て替え、神輿新造
1977 昭和52 11 南部土地区画整理事業により石上会館)、鵠沼石上2-2に開設。「石上会館建設記念碑」、造立
1978 昭和53 4 3 藤沢市立新林小学校開校。鵠沼東・鵠沼石上が校区となる
1978 昭和53 4 17 砥上(いしがみ)公園(鵠沼石上1丁目)、開園
1978 昭和53     藤沢YMCA、鵠沼石上1-13-7で会館活動開始
1979 昭和54 3 31 高砂公園(鵠沼石上2丁目)、開園
1982 昭和57 8 28 藤沢駅前南部土地区画整理事業、完了
1982 昭和57 8 29 鵠沼石上一〜三丁目で新住居表示を実施
1982 昭和57 10 1 鵠沼石上に市歯科医師会の手により心身障害児者歯科診療所開所
1985 昭和60 6 30 台風により石上地区の20棟が床下浸水
1990 平成 2 12   藤沢リラホール(鵠沼石上1-1-15 藤沢リラ5F)、オープン
1995 平成 7 4 1 YMCA高等学院、鵠沼石上1-13-7に開設
2004 平成16 6   鵠沼石上3-3-6に医療法人篠原湘南クリニック クローバーホスピタル開院(鵠沼地区唯一の病院)
2010 平成22 5 30 石上町内会、ホームページを開設(鵠沼地区の町内会では初)
2010 平成22 11 28 石上町内会、石上神社・石上会館の土地寄贈記念石碑、造立
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 加藤梔E衛門:『現在の藤澤』(1933)
  • 有賀密夫:明治初期の鵠沼村(その一)『わが住む里』第43号藤沢市総合市民図書館(1992)
 
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