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砥上と石上鵠沼と思しき地域の呼称としては、奈良時代、正倉院に納められた『相模国封戸租交易帳』に出てくる土甘郷であるということは、第0027話で述べた。土甘の読みだが、「つちあま」という説もあるけれど、多くは「とかみ」「とかめ」「とがみ」と読むとしている。「とがみ」ならば、鎌倉時代に出てくる「砥上ヶ原」につながると書いておいた。 江戸時代の鵠沼には14の集落名が記録されているが、そのうち平安末期の大庭御厨鵠沼郷と『天養記』に出てくる範囲は、現在皇大神宮例大祭に人形山車を出す宮ノ前、上村(かむら)、宿庭(しゅくにわ)、清水、苅田、大東、仲東(なかひがし)、原、堀川の9集落だったと思われる。江戸初期に東海道が整備されると、引地、車田が形成され、江戸中後期の新田開発によって新田(しんでん)、納屋(なんや)が形成された。 残る一つが石上(いしがみ)である。 石上の地名の初出は1285(弘安 8)年2月2日の『吾妻鏡』にある「石上郷、鎌倉の法華堂領となる」という記録だという。すなわち、鎌倉時代中期には石上郷が形成されていたことになる。 石上郷は、固瀬川の渡津(としん)集落として発生したと考えられる。平安時代までは、このルートの交通量はさほど多くはなく、鎌倉初期に至っても、鴨 長明の「浦近き砥上が原に駒とめて固瀬の川の潮干をぞ待(まつ)」の歌でも知られるように、下流部で干潮を待って馬または徒渡りをしていたとも考えられる。 鎌倉に幕府が開かれると、上方(かみがた)と結ぶルートの交通量が格段に増え、鎌倉の入口に当たる固瀬川の渡河は重要な問題となった。石上というポイントは、このすぐ下流で西へ大きく、かつ複雑な曲流があったため、そのすぐ上流部に渡船が設けられるようになった 『皇国地誌』には、天正期に「固瀬川砥上渡しが石上渡しと呼ばれるようになる」とある。すなわち、それまでは「砥上渡し」と呼ばれていたらしい。「砥上」の読みについては、ルビを振っていないので、正確なところは判らないが、わざわざ別の漢字を用いてあるということは、「とがみ」なのだろう。それまでは、郷名は石上、渡しは砥上だったのだろうか。 1873(明治6)年5月1日に鵠沼村は28の小字に分けられるが、この時に石上集落の地域は「砥上」と書いて「いしがみ」と読むようになった。この小字名は1980(昭和55)年 8月29日の住居表示が鵠沼石上一丁目〜三丁目と制定されるまで続いた。現在、この小字名は「砥上(いしがみ)公園」にわずかに残っている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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