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第0055話 旧家3 關根家

上杉憲政の家臣=關根孫六

 『皇国地誌』に「北条氏綱に平井城を陥された上杉憲政が越後に逃げ延びた際、家臣=關根孫六が帰農、土着」とある。
 これが、普門寺の東方に邸宅を構え、地元では「大關根」と呼び慣わしている關根本家の祖先である。
 「上杉憲政(のりまさ)が越後に逃げ延びた」事情をかいつまんで述べておく必要があろう。
 上杉憲政は、関東管領を務めた山内上杉家の当主だった。1531(享禄4)年、父の養子=憲寛を追放して山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領となって関東一円を支配した。
 戦国時代になると、小田原を拠点に関東に覇権を拡大する後北条家との対立が激化し、縁戚を頼り、越後の長尾家の許に身を寄せる。この時、臣下の關根孫六が帰農し、鵠沼に土着することになる。
 越後で上杉憲政は長尾家の景虎を養子とし、上杉氏を名乗らせ、関東管領職を譲る。
 謙信と改名したこの養子は、やがて甲斐の武田信玄と覇権を争い、敵に塩を贈ったり、鞭聲粛々夜河を渡ったりと、戦国史に数々のエピソードを残すことになる。
 ところで、上杉憲政の臣下の關根氏は、鵠沼で帰農した孫六だけでなく、何系統かあったようで、埼玉県志木市宗岡に「関根兵庫館」、埼玉県本庄市児玉町下浅見に「関根館」、茨城県古河市に「関根豪族屋敷」があったり、山形県米沢市に大字関根があったりして興味をそそられるが、「鵠沼を巡る」話ではなさそうなので、深入りはすまい。

鵠沼村最大の關根家

 1870(明治 3)年の鵠沼村戸口資料にある288戸のうち、關根家は32戸を数え、断然1位である。実にこの時代の鵠沼村の11%が關根家だということになる。この点では、旧家でありながら1戸しか掲載されていない熄シ家と好対照である。
 また、關根家の分布を見ると、鵠沼村の北半分にしか分布していない。この点では、南に分布の中心がある淺場家と好対照である。
 その職業も、名主や豪農があったり、網元(2戸)や藷問屋があったりと様々である。.
 明治以降も、皇大神宮宮司と小学校教諭を兼任し、鵠洋小学校長を務められた關根正典氏や市会議員で「鵠沼を語る会」の会員でもあった關根久男氏をはじめ、鵠沼地区の各方面で活躍しておられる關根家の方々を日常的に目にする。
 もう一つ興味を惹かれるのは、關根家の家紋は何種類もあるらしいことである。
 このことには、鵠沼地区最大の共同墓地「鵠沼墓地」で気づいた。この墓地は、1943(昭和18)年、軍需工場として日本精工藤沢工場が拡張工事を行った際、拡張する敷地にあった野墓(村落墓地)を、万福寺裏手に日本精工が出資して共同墓地を造成し、そこへ移したものである。
 そこには關根家の墓地が何軒分もあるのだが、そこに彫られた家紋が何種類もあるのに気づいたのである。
 それが何種類であるかについては、未だ調査していない。もちろん關根家の墓地は鵠沼墓地だけでなく他にも各所に散在しているから、全部を調べるのは困難だろうが、いずれ取り組んでみたい課題である。
 このように多種類の家紋が見られるのは、かなり古い段階から分家を繰り返した結果だろうと考えられる。
 以下に1870(明治 3)年の鵠沼村戸口資料に掲載された關根家を一覧表にしてみた。
番号 町内 当主名  屋   号 備   考
6 上村 關根嘉兵衛 仕立屋 元仕立屋
7 上村 關根與兵衛 かごや 元籠屋
21 宮ノ前 關根庄右衛門 大門
35 宮ノ前 關根新五兵衛
36 宮ノ前 關根市郎右衛門 又兵衛屋敷
39 宮ノ前 關根庄三郎 清べえさま
42 宮ノ前 關根卯之助 大門(→大橋)
44 宮ノ前 關根兵右衛門 ひょうえむさん
45 宮ノ前 關根彦兵衛 午さん
46 宮ノ前 關根孫八 孫八様
47 宮ノ前 關根佐五兵衛 かしば(河岸場)
48 宮ノ前 關根喜兵衛 きべいさん
56 宮ノ前 關根市左衛門 市っちゃん/ごうど
58 宿庭 關根勘左衛門 かんぜむさん
59 宿庭 關根重五郎 重さん(重五郎様)
62 宿庭 關根安左衛門 安さん/権さん
63 宿庭 關根金左衛門 金じろう様
64 宿庭 關根六右衛門 はずれ/神主
71 宿庭 關根傳左衛門 大關根(關根本家)/醤油屋 村で2番の大地主。戦国武士の土着
81 清水 關根惣四郎 惣四郎さん/しんけ 網元(新開網)
82 清水 關根太郎左衛門 幸八ちゃん
89 清水 關根伊兵衛 伊べいさま
94 苅田 關根六治郎 六さん/屋根屋の権さん
99 苅田 關根甚八 はしど(橋戸)
112 苅田 關根長右衛門 長えむさま
113 苅田 關根佐七 佐七さま/藷國 藷問屋
114 苅田 關根平次郎 へっさま
121 關根佐十郎 作えむさま
202 大東 關根茂右衛門 隠居 網元(東網)
248 引地 關根市兵衛 あらや 255の分家
248 引地 關根庄八    
255 引地 關根庄右衛門 引地の關根 地主で豪農

名家「大關根」

 1870(明治 3)年段階での關根本家(宿庭)の当主は關根傳左衛門である。
 彼の名には、『鵠沼』第89号に「瑙彌一の祖父と父」を執筆した時に出会った。
 「明治新政府が次々と新政策を繰り出していた明治5年、山口延之輔は何とも壮大な計画をぶちあげる。相模川の水を與(よせ(相模湖町)から分水し、5里20町余の用水路で引水し、相模原を開拓して7000町歩の畑地を灌漑しようというものであった。陸軍による近代測量に基づく地図が出る10年も前だ。計画は神奈川県・足柄県に出願され、両県の係官立会の許で実地検証がなされ、内務省に伺いを立てるという段階まで進んだが、どうやら資金調達の上で暗礁に乗り上げたらしい。 この計画完成の暁には、更にいくつかの計画が予定されていた。一つは帷子(かたびら)川の河谷を通る水路を設け、山梨県郡内地方(原文では駿甲両國とあるが、駿河は方向が違う)と横浜とを結ぶ通船経路計画であり、もう一つは鵠沼村の海岸付近の平地に相模原灌漑の末水を引き入れて田地を開発しようという目論見である。ことに後者は高座郡鵠沼村關根傳左衛門ほか1名が発起人となっているから、相当本気で考えていたらしい。關根傳左衛門とは、宿庭の普門寺横に屋敷を構え、「大関根」とも呼ばれる関根本家の明治初期の当主の名である。 」
 さらに、宮ノ前町内会館の前にある「首塚」を建てたのも關根傳左衛門である。
關根家年表    
西暦 和暦 記                        事
1551 天文20 7   北条氏綱に平井城を陥された上杉憲政が越後に逃げ延びた際、家臣=關根孫六が帰農、土着
1694 元禄 7 4 25 鵠沼墓地内關根家墓地の一字金輪像・金剛界大日如来坐像、玄室道円信士墓碑、造立
1774 安永 3 2 22 鵠沼村關根源藏、高野山に登山
1792 寛政 4 4 28 鵠沼村關根勘左衛門、高野山に登山
1810 文化 7 6 29 鵠沼村關根傳左衛門、高野山に登山
1821 文政 4 10   万福寺裏鵠沼墓地關根家墓所の出羽三山供養塔、造立
1822 文政 5 10 鵠沼墓地内關根家墓地の巡礼供養塔、造立
1827 文政10 3   鵠沼墓地内關根家墓地の観音経万部供養塔、造立
1828 文政11 2 11 鵠沼村加藤儀左衛門・關根三左衛門の両名、高野山に登山
1847 弘化 4 2 10 鵠沼村關根佐七ら4名、高野山に登山
1869 明治 2 9   鵠沼村、組頭=關根庄左衛門
1873 明治 6 5   關根傳左衛門、第2小区の副戸長に就任
1879 明治12 11   鵠沼村、戸長=關根傳右衛門、筆生=關根庄左衛門
1879 明治12 12   關根傳左衛門、首塚を発掘し、二人分の遺骨発見。首塚の碑造立
1880 明治13     鵠沼村、村長(戸長改め)=關根庄左衛門(引地)
1889 明治22 8 1 鵠沼村、村長=關根庄左衛門
1897 明治30 8 仲東、人形山車(浦島太郎)を新調。世話人關根元次郎
1903 明治36 4 6 關根総四郎(清水)、神奈川県漁業許可証(第2623号 地曳網漁業)を得る
1905 明治38 6   鵠沼村關根万蔵ほか2名、水車設置願を県知事に提出・認可される
1935 昭和10 8 皇大神宮鳥居、關根治郎吉(鵠沼出身で横須賀在住の篤志家)らにより建立(木造)
1946 昭和21 12 20 鵠沼地区農地委員、地主委員=關根善之助
1964 昭和39     關根菓子店(菓子販売)、本鵠沼1-6-32に開業
1967 昭和42     玖錐ェ商店セキネ洋品店(洋品販売)、鵠沼神明4-12-25に開業
1969 昭和44     關根不動産(不動産仲介)、鵠沼桜が岡3-3-5に開業
1972 昭和47 4 1 鵠洋小学校長:横溝靖男→關根正典
1987 昭和62 11 10 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』39号刊行(式内石楯尾神社の由緒:關根正典・他)
1989 平成 1 1 10 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』46号刊行(私のふるさと鵠沼:關根次郎・他)
1989 平成 1     關根英雄税理士事務所、本鵠沼3-5-12に開業
1990 平成 2 11 13 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』56号刊行(郷土史あれこれ 相州土甘総社皇大神宮 宮司 関根 正典 )
1993 平成 5 8 10 鵠沼を語る会、大東の關根佐一郎宅を訪問、取材
1994 平成 6 3 8 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』70号刊行(關根佐一郎氏宅を訪ねて:川島孝子・他)
1995 平成 7     關根善之助、普門寺境内に大師堂建立、寄進
1996 平成 8 9 17 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』74号刊行(1944年の思い出 関根 久男 )
1998 平成10 9 30 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』77号刊行(鵠沼随想 関根 久男 )
2001 平成13 3 31 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』82号刊行(鵠沼随想 関根 久男 )
2002 平成14 3 31 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』84号刊行(半農半漁村のころの鵠沼 関根佐一郎・関根  博・他 )
2002 平成14 10 31 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』85号刊行(ニェアールの生地 昆明市訪問 関根 久男 )
2003 平成15 2 17 鵠沼を語る会会員=關根久男(藤沢市議)、膵臓癌のため没。享年79
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 加藤梔E衛門:『現在の藤澤』(1933)
  • 有賀密夫:明治初期の鵠沼村(その一)『わが住む里』第43号藤沢市総合市民図書館(1992)
  • 渡部瞭:序章 瑙彌一の祖父と父『鵠沼』第89号鵠沼を語る会(2004)
 
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