HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0056話 岩本定次知行地

 後北条支配下では東郡に属した鵠沼村は、馬廻衆の岩本太郎左衛門定次が知行している。太郎左衛門の知行地は、次のとおりである。
国名 郡名 郷村名 貫  高 付  記
相模国 東郡 鵠沼村 73貫767文
相模国 三浦郡 平佐久村 96貫600文
武蔵国 川越郡 須奈村 16貫800文 弘治元年検見
合    計 187貫167文
 ここを知行した岩本家は、早くから後北条氏に属し、「早雲寺殿豆州御打入之砌、駿州より御供之家」として、「駿河衆四家」のうちである(小田原旧記)。おそらく今川家の家臣であったのであろう岩本太郎左衛門は名を定次といった(伊勢結城文書)。 
 岩本定次は、御旗本四拾八番将衆の一人として、寄子20人を付属している(小田原旧記)。
 岩本定次が知行地鵠沼村でどのような働きをしたかについて記した記録は見つかっていないようだ。

岩本太郎左衛門定次の記録

西暦 和暦 記                       事
1544 天文13 11   岩本太郎左衛門尉定次、江島神社遷宮式に太刀1振りを寄進(初出) 
1553 天文22 4 22 北条氏康、上野国佐貫荘に敵勢が侵攻した際、茂呂因幡守に守備を命ずる副状を出させる
1555 弘治 1  3 17 岩本定次、北条綱成と陸奥国衆白川晴綱との同盟交渉の取次役を務める
1555 弘治 1 10 19 岩本定次、白川晴綱に上総国金谷城の状況を報告する
1557 弘治 3 〜1564、相模東郡鵠沼や相模三浦平佐久などに187貫余の知行岩本定次、奏者を務める
1557 弘治 3 11   岩本定次、国府津・押切への北条家朱印状の奏者を務める
1559 永禄 2 2 鵠沼村、岩本太郎左衛門定次(御馬廻役)知行地となる(他を含め187貫167文)
1564 永禄 7  2   岩本定次、上小田中への北条家朱印状の奏者を務める
1564 永禄 7 9   岩本定次、入間川への北条家朱印状の奏者を務める
1564 永禄 7 9   岩本定次、関戸郷への北条家朱印状の奏者を務める
1568 永禄11 7   北条氏政、岩本に早川海蔵寺住持上洛の伝馬手形を与えさせる
1569 永禄12 6 24 北条氏政、岩本を上州小泉城主の富岡清四郎秀親への使者とする
1569 永禄12 8   北条氏政、岩本を上州小泉城主の富岡清四郎秀親への使者とする
1571 元亀 2 5   北条氏康、白河結城義親の贈物に対し、礼状を使者岩本をして送らせる
1572 元亀 3 12   岩本定次、当麻郷への北条家朱印状の奏者を務める
1590 天正18 7 5 「太閤の小田原攻め」の結果後北条氏敗北→遺領は徳川家康支配下に入る
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 下山治久:「戦国期の鵠沼の領主・岩本定次の軌跡」『藤沢市史研究』第43号藤沢市文書館(2010)
 
BACK TOP NEXT