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第0054話 万福寺破却

空円の殉教と万福寺破却

 後北条氏は、甲斐の武田信玄と厳しく対立し、覇権を競っていた。信玄は本願寺の姻戚に当たり、真宗に好意をもっていたために、北条氏綱は宗徒が一揆を起こして信玄に通ずるのを警戒した。そこで1528(享禄元)年、氏綱は相模の真宗寺院を浄土宗に改宗させて、鎌倉の光明寺の末寺にしようとした。
 この時、万福寺の住持第八世空円は、断乎としてこの命令を拒んだので、終に六本松原にて斬られ、寺は破却された。空円は最期の場にのぞんで、静かに念仏を唱え、和讃の「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても耐すべし」と唱え、従容として死に就いた。かくして、六本松原を殉教の血に染めたのであるが、この後、六本松原は一草も生えないと伝えている。
 その後、時期は不明だが万福寺は第九世了空によって再興された。

豊太閤の制札

 1590(天正18)年7月、小田原城は開城し、百年にわたり関東に威を張った北条氏はついに亡びた。豊臣秀吉は万福寺の第十世、唯順に制札を与えて、軍勢の狼藉を禁じた。この制札は、後年、火災のため焼失したが、写しだけが残っている。

本願寺の分派と唯順

 1593(慶長 7)年、本山の本願寺が東西に分かれた。時に万福寺住持唯順は門徒を集めて、「御本寺二派にならせらる、何方に属すべきか、各々の心任せに致すべし」と相談した。門徒達は「御住持の御意次第」と答えたので、唯順は「総領家に従い、教如上人に参るべし」として、直ちに東本願寺に属した。教如上人は前住顕如上人の長子で、一度本願寺を嗣いだのであるが、豊臣秀吉のはからいで職を弟の準如上人にゆずり隠居していた。そこで徳川家康は教如上人に同情して、東本願寺をとりたてたのである。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用文献]
  • 荒木良正:「万福寺をめぐる伝説」『藤沢史談』第10号(1959)
 
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