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第0053話 普門寺草創

 1528(享禄元)年5月、密厳山遍照院普門寺(真言宗)、の元となる藤沢宿感応院の末寺として、権少都長良元により唐土ヶ原(平塚市)に創建されたと伝えられる。
 現住職であり「鵠沼を語る会」会員の川島弘之が、『鵠沼』第35号に「普門寺について」と題する文を掲載しているので、その冒頭を引用しよう。

普門寺について

  当寺は密巌山 遍照院と号し、高野山真言宗。もとは藤沢大鋸の感応院末寺でした。享禄元年(1528,室町時代後期、戦国時代)5月、良元僧都が唐土原原に草創しました。元和3年3月、元朝阿闍梨(あじゃり)が本尊不動明王を勧請し砥上ヶ原の現所に再開基しました。(中略)
 (2)草創の地唐土ヶ原
 当寺が草創された唐土ヶ原は唐ヶ原(もろしがはら)のことです。ここは相模の渡来人に関連がある重要な古地名です。唐ヶ原は花水川(金目川)の左右1キロメートルに位置していました。湘南の海辺にせまる高麗山の南にあたり、古相模湾(遠古は厚木・依知あたりまで湾入していた)の南縁です。『新編風土記』によれば、大磯宿の海辺から高麗寺村および大住郡(のちに中郡と平塚市に改編される)の海辺にわたる一帯を「唐ヶ原」と呼んでいました。
 唐ヶ原にちなむ東歌に次の一首があります。
   名にしおはば虎や臥すらむあづま路に
     ありというなる唐ガ原 (忠 房)
 唐ヶ原の「唐(もろこし)」は普通は漢(もろこし・中国)ですが、ここでは外国人、特に高麗人になぞらえてつけられた地名といわれています。段氏は『日本に残る古代朝鮮』(関東編)で、あづま路の唐ヶ原に「虎の臥すらむ」とうたわれた詩句は高麗寺山を形容した句か、朝鮮虎のイメージをかりて、高麓人を詠んだ句か珍しい万葉歌詞の素材といえると述べています。
 この唐ヶ原には黒部の宮がありました。のち津波にあい現在の春日神社となりました。この黒部は呉部(くれべ)の宮のことで、呉は句麗で高句麗のことです。
 このように渡来した朝鮮人の歴史が多く残っている唐ヶ原に普門寺は誕生しました。(後略)

感応院

 藤沢大鋸の感応院は、「相模国準四国八十八箇所霊場」の一番札所がある真言宗寺院。
 1830(文政13)年に小川泰二が著した『我がすむ里』に次の件がある。

 藤沢山の南、大鋸町にあり、三島山瑞光寺と号す、真言宗なり、本尊不動明王御長一尺八寸の立像にして、智証大師の御作、当山開基の砌り、将軍実朝公御寄附の尊像也、御朱印三石七斗、その余御除地五ヶ所境内、東西百二十五間、南北四十二間なり、表門の額ハ三嶌山の三字を竪に書す、筆者伝はらず、謹しんで当山の来歴を案ずるに、開山道教律師ハ京都東寺遍智院の住にて、広橋大納言雅親卿の息なり、密法修練、戒行道徳の律師ゆへ、鎌倉三代の将軍右大臣実朝公御帰依浅からず、前の年右大将家勧請ありし三嶌明神の側において、建保戊寅六年を以て大刹を建立し、道教律師を開山とす、初めて三嶌山感応院瑞光寺と呼び、将軍家より不動の尊像一躰、御剣一口、良田若干を添て賜ふ、これ当院最初の紀源なり、開山律師ハ、嘉貞二年丙申五月二十六日に遷化あり、しかしてより久しく歳月を歴て北条の一乱に及び、天下の人民塗炭に苦しむ、この時当院も大ひに頽廃し、神廟僧舎ことごとく兵火の為に恢燼となれり、後足利義満公の世にいたり、応永五年を以て再建す、この折、中興開山は阿闍梨幸海法印なり、この幸海ハ応永七年庚辰十月十六日に遷化ありて、それより慶長十四年巳酉八月神祖東照宮鎌倉将軍家の由緒を以て関東法譚修学所の列に加へ給ひ、慶安二年巳丑八月征夷大将軍家光公、先般の列に依て山林竹木諸役を免除し御朱印を賜ふ、実に六百年来の古梵刹にして、松竹森々と茂りて仏閣を逵(めぐ)り、寂寞殊勝の霊境なり、委しくハ三十三世勝英阿闍梨の筆記に見ゆ、■にハその大畧をしるすのみ

 この寺はよく「藤沢宿最古の寺院」などと紹介される。1218(建保6)創立と伝えられるそうだが、これが事実なら同じ真言宗の荘厳寺の方が古いことになる。
 荘厳寺は、高野山真言宗の寺。1184(元暦元)年覚憲僧都により創建された。1235(嘉禎元)年、覚盛により中興再建されている。
 もともとは、常光寺に西の妙善寺の旧地の山下にあったが、元文年間(1736〜1741年)に火災に遭い、1747(延亭4)年、白旗神社境内に本堂が建てられ、白旗神社の別当寺となっていた。明治の神仏分離によって、1875(明治8)年に現在地に移されている。
 本尊の不動明王は運慶作と伝えられ、源義経の位牌があることで知られている。
 「相模国準四国八十八箇所霊場」の四番および十番札所がある
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用文献]
  • 川島弘之:「普門寺について」『鵠沼』第35号(1987)
  • 小川泰二:『我がすむ里』(1830)
 
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