|
この時代の城は、多くは平山城という、展望のきく小高い地形を利用したもので、大庭城もその典型である。 大庭城最中羽鳥三丁目の丸寿菓子店が製造販売する「大庭城最中」は、献上銘菓・神奈川県指定銘菓として、第48回全国推奨観光土産品審査会 合格商品(推奨品)で藤沢市の観光土産品になった商品である。そのデザインは、右の写真のように三層の天守閣を象ったものだが、実際の大庭城にはそのようなものはなかった。 日本の城に天守閣が出現するのは、織田信長の天下平定後のことであり、安土城が初期の代表例とされる。 すなわち、安土桃山時代になって初めて天守閣が出現するが、それも、全ての城に天守が設けられたわけではなく、天守のない城の方がむしろ普通だった。また、城下町などというものも、よほど大きな平城の場合のみに存在したのである。従って、「大庭城最中」のデザインはウソッパチであり、誤解の元である。 後北条氏の大庭城攻略上杉朝長の大庭城は、1512(永正9)年、伊勢宗瑞=北条早雲の攻略するところとなったといわれる。これにより、平安末期から続いた相模国最大の荘園=大庭御厨は終焉を迎えたと考えられるが、伊勢神宮側にもその明確な記録はないらしい。 東相模を制圧した早雲は大庭城を大改修し、福島伊賀守勝広に大庭付近を与え、大庭城を守らせたが、玉縄城を築城したので利用価値は低くくなり、後北条氏が滅ぶと廃城になった。 現在、大庭城址公園には次のような文面の石碑が建てられている。 此地大庭景親ノ居城ト云フ、後上杉定正修メテ、居城セシガ、永正九年子朝良ノ時、北条早雲ニ政略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル。 昭和七年九月 神奈川県 城址の下方にある舟地蔵には大庭城にからんで、次の ような伝説が伝えられている。 地蔵は江戸期のものとされ、同様の舟地蔵は市内では長後にも2体ほど分布している。比較的珍しい形態なので生まれた伝説であり、史実とは考えられていない。 舟地蔵伝説北条軍がこの城を攻撃した際、城の前面と左右に広がる田のあたりは一面の沼地であった。攻略しかねた北条軍の武将達は、軍議を重ねたが、いたずらに対陣の日が過ぎていった。ある日、城の対岸の稲荷(小字名)でボタ餅を売っていた老婆に北条方の武将の一人がどうしたらいいものかと相談したところ、「わけはありません。堤を切れば水は干上がります」と堰(せき)の場所まで簡単に教えてくれた。 喜んだ武将は、大事がもれるのを恐れ、老婆を斬り殺し、その夜のうちに堰を壊したので、満々と城の周囲に湛(たた)えられていた水は、すっかり引いてしまった。 北条勢の正面からの総攻撃により、さしもの大庭城も落城してしまった。哀れな老婆の死を悼んだ土地の人々が城跡のそばに地蔵様を建てて祀(まつ)ったのが、舟地蔵である。地蔵様は、左手に宝珠をもっているが、土地の人々は、これは宝珠ではなくボタ餅だといっている。 また、堰のあったといわれる現在の柏山稲荷の付近は、大庭城の搦手(からめて)で、一旦有事の際には堰を閉じれば大庭の耕地は一面の湖と化し、大庭城をして難攻不落の名城とする使命を有した要害で、重臣の吉田将監(しょうげん)に守らせたといわれ、ショキヤシキ(将監屋敷)の地名が残されている。ほかに、大庭城の南、小糸川を隔てた台地には、「築山(つきやま)」という地名が残され、城をせめあぐねた北条勢が、大庭城に近付くために築いた山であるといわれる。
|