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第0051話 太田道灌と大庭城

 平安末から鎌倉初期、大庭氏が大庭御厨の下司だった時代、大庭御厨の拠点、すなわち大庭氏の居館がどこにあったかは、諸説があって明確でない。主な説には
 1、大庭城跡
 2、小字「隠里」の宗賢院の裏手
 3、城(たて)付近
がある。
 『新編相模風土記稿』には、大庭景親の館の場所は大庭城と書かれている。しかし、発掘調査の結果、室町・戦国期の城郭跡と判明した。
 宗賢院について、『新編相模風土記稿』には、茶釜一口大庭三郎が陣釜なりという、と書かれている。また小字「隠里」に景親依頼大庭氏の館があったという伝承がある。しかし、ゴルフ場となっていて、調査ができていない。

太田道灌

 室町時代、大庭御厨は一時御家人だった結城氏が支配したが、関東管領の扇谷上杉伊予守顕定が押領して15世紀後半を支配した。この時代、大庭御厨内の鵠沼郷がどうであったかについての史料は見つけていない。
 関東管領=扇谷上杉氏の家臣だったのが、江戸城の築城者として名高い太田道灌である。

 1464(寛正5)年8月の伊勢大神宮司庁宣案に、太田道灌が登場する。即ち荒木田氏経郷より大庭御厨、同御厨内堤郷、武蔵国飯倉御厨(港区)に対して、神役としての河篭米(かわごまい)の完済を命じたものである。即ち神役は五十鈴川の損所を修理することを目的に課せられるもので、太田左衛門大夫(資長)方への書状である。即ち、「相模国大庭御厨は、厳重の神領として神宮より知行致し、限りある神供を備へ、天下の御祈祷を致すとところ、当時武家の輩押領(やからおうりょう)せしめ、剰へ上分を難渋せしむるの条、神慮測り難く候、且つは御敬神、且つは有道の儀を以て、御成敗に預り神宮知行を全くし候はぱ、併しながら御神忠たるぺく候や。恐々謹言三月二十九日荒木田氏経、判  謹上 太田左衛門大夫殿。」(註)荒木田氏経は神宮神主。武家の輩の押領については、次の太田道真、資長父子あての書状に詳しい。即ち、大神宮領大庭御厨の事(鎌倉)権五郎景正の寄進として往古より、相違な在所に候、然る間神宮の代官として出口、室田を下しおき候の処、彼等押領仕り、剰へ近年迄、形の如き上分不法によって神罰を蒙り、御敵に罷り成り、御出候わんぬ。他国仕つり候、その後国事御成敗に候、………重ねて御寄進候はば、御祈祷精誠を致すぺく候………恐々謹言、(文明元年か)正月二十六日氏経判内宮一禰宣氏経  謹上 太田備中入道(資清道真) 殿  左衛門大夫(資長) 殿 同前子息なり。」
 以上は相模国を支配した扇谷上杉氏によって大庭御厨も全てその領国化してしまった事を「口事御成敗」といったと考えられ、その上杉氏に対し、同御厨の返付を求めたのがこの書状である。かくて伊勢神宮は神宮領の回復について関東管領山内上杉、相模守護扇谷上杉氏を経ず、直接太田氏に依頼しているのである。
 (註)出家して太田道潅と号する以前は太田大夫資長と称して、扇谷上杉氏の家宰であり、太田家は清和源氏の一族で、祖先は源頼政としている。もと丹波国の出で五、六代前より相模国に住んだとある。又大庭城は扇谷上杉氏の築く所にして、大庭景親、後太田壷潅の暫時居城となり、1512(永正9)年北條早雲に攻略された。

荒木田氏経( あらきだ-うじつね 1402−1487)
 室町時代の神職。 応永9年生まれ。家は代々伊勢神宮の祠官(しかん)。内宮禰宜(ねぎ)から1462(寛正3)年一禰宜(長官)にすすむ。祭祀など伝統の復興につくした。述作の「氏経卿(きょう)神事日次記(ひなみき)」はのちの神職たちの拠(よ)り所となった。1487(文明19)年1月12日死去。86歳。家名は藤波。編述書に「氏経卿引付(ひきつけ)」「遷宮記」など。

大庭城

 大庭城は、太田道灌が鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に最新の技術と取り入れ修築工事をおこなったと伝えられ、15世紀末から16世紀初頭には、道灌の主たる扇谷上杉定正・朝良の父子が相継いで居城したが、1512(永正9年北条早雲の攻略するところとなったといわれる。

室町時代の大庭御厨
西暦 和暦                記                       事                 
1452 享徳 1 12 12 大庭御厨の地頭がこの頃結城氏となり、上杉伊予守がこれを押領
1457 長禄 1 5 1 扇谷上杉氏が大庭御厨の支配権を握り、その家臣太田道灌が江戸城を築城
1462 寛元 3 船橋知行之氏経、伊勢神宮禰宜に任じられ、大庭御厨など神宮経営の建て直しに努力
1464 寛正 5 8 太田道潅、荒木田氏経卿より大庭御厨に対して、神役としての河篭米の完済を命ぜらる
1465 寛正 6 3 29 内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の神宮支配の貫徹を依頼
1467 応仁 1     京で応仁の乱が勃発
1469 応仁 3 1 26 内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の地方武家の横領につき述べる
1469 応仁 3     この頃、太田道灌による大庭城築城完成か
1487 文明19 1 12 荒木田氏経、没
1512 永正 9 上杉朝長の大庭城、北条早雲により落城
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用文献]
  • 花輪 桂:「大庭御厨慨史」『鵠沼』第34号
 
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