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室町幕府が関東統治のために置いた出先機関・鎌倉府の長官のことを当初は関東管領と呼んでいたが、足利持氏が、自分は京の将軍と同格であるとして「公方」と自称し始め、関八州に甲斐・伊豆を併せた十ヶ国を管轄する役割を負っていた。足利義詮の弟・基氏を初代とし、その後は彼の子孫が世襲している。その鎌倉公方の補佐役は、当初関東執事と呼んでいたが、鎌倉公方の呼称が定着すると、関東管領の呼称は関東執事に移った。関東管領は、初期を除いて上杉氏が代々就任した。 関東管領上杉家は、居館の場所で主要な4系統に分かれ、時に協力し、時に対立しあった。 1 扇谷家 相模守護。 大庭御厨の下司。 2 犬懸家 上杉禅秀の乱で上杉氏憲が有名。 乱後、山内家に代わられる 3 山内家 禅秀の乱後、関東管領職を独占世襲する事実上の惣領家となる 4 詫間家 元々養子相続が多かった。 山内家に吸収され自然消滅 室町時代の鎌倉は、鎌倉公方足利家と関東管領上杉家の対立・抗争の上に上杉氏の内部抗争が重なって、その経緯を読み解くのは難しい。 上杉禅秀の乱1411(応永18)年10月6日、上杉禅秀の乱。上杉(犬懸)持氏・憲基、鵠沼付近を通過して小田原に敗走した際、藤沢を舞台に激戦が繰り広げられた。遊行寺の国史跡=「敵御方供養塔」は、この乱の両軍の戦死した将兵の供養のために建てられたものである。
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