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第0048話 酢は鎌倉

酢は鎌倉?

 戦前の地理教育は、「物産地理」といって、各地の物産を丸暗記するという認識があった。これはその頃のなぞなぞ。
 「酒は灘。醤油は野田。それでは酢は?」 …正解は「すは鎌倉」
 近年は「いざ鎌倉」ということが多いようだが、かつては「すわ鎌倉」の方が普通だった。
 「すべての道はローマに通ず」の時代から、中央集権を目指す政権は、支配領域の隅々と中央を結ぶ交通網の整備に力を注いだ。
 鎌倉幕府もその例外ではなく、先ず関東一円と鎌倉を結ぶ「上道(かみつみち)」「中道(なかつみち)」「下道(しもつみち)」と呼ばれる鎌倉街道を整備したことが知られている。

鵠沼の鎌倉道

 鎌倉の上方(かみがた)側の出入口に当たる鵠沼は、とりわけ交通量の多い重要なルートが通っていた。
 それは鵠沼のどの辺を通っていたのだろうか。
 それを想定するには、当時の地形を想定しておく必要があろう。
 おそらく当時の相模川は、現在の小出川あたりまで、1.5kmほど東に曲流していた。茅ヶ崎付近の海岸線は、今より3kmほど北にあったと思われる。引地川の流路は、西流して現在の千ノ川の流路を流れていたか、現在の流路に近い鵠沼と辻堂の間を自由蛇行し、下流部は東流して固瀬川に流入していたとも考えられる。川袋あたりには古鵠沼湖の名残の広大な湿原が展開し、ハクチョウの越冬地やシギが群れる姿が見られたに違いない。柏尾川流域にも深沢の湿原が拡がっていた。
 鎌倉七口のうち、上方方向に通ずるのは、化粧(けわい)坂、大仏坂、極楽寺坂である。また、少し回り道だが亀ヶ谷坂、巨福呂坂もあり、こちらがメインルートとも考えられる。
 鎌倉時代の東海道は、相模川以東は現在の東海道とほぼ同一ルートと思われ、鎌倉に向かうには
1.引地あたりから「中学通り(湘南高校北側の道)を現在の藤沢駅付近から県道32号を大仏坂に向かうルート、すなわち鵠沼の北辺を辿る道が考えられるが、深沢の湿地帯がどの程度のものであったかが問題になる。
2.東海道をさらに進んで、藤沢(当時はどの程度の集落があったか不明)付近で当時音無川と呼ばれていた境川を渡って右折し、固瀬川左岸を固瀬に向かうルート。これは鵠沼を通らない。
3.1のルートが小田急と交差した六本松から南下し、一本松踏切あたりから新田を経て石上の渡しに向かうルートで、鎌倉時代後半には、最も一般的なルートだったと考えられる。
4.羽鳥付近で東海道から分かれ、辻堂から南東に向かい、本鵠沼駅付近から川袋湿原の南側の砂丘を通り、藤ヶ谷で固瀬川を徒渡りするルートで、西行が鴫立沢の歌を詠んだと思われる道。
5.4のルートを南下し、海岸に出て海沿いを辿り、河口付近で固瀬川を渡るルートで、鴨長明が通ったと思われる道。
などが考えられる。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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