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1335(建武2)年7月22日、北条時行は信濃で挙兵して、鎌倉奪還に成功する。 7月23日、足利直義は、鎌倉をいったん退いた時、家来の淵部義博に対して、護良親王の殺害を命じた。刺客の淵部義博が薬師堂谷にある土牢に近づくと、護良親王をそれを察知して立ち向かった。しかし、護良親王は、土牢に長い間監禁されていたので、力尽き、刺客の淵部義博がつきつけた刀の切っ先を口にくわえ、噛み折って、壮絶な最期を遂げた。 8月、足利尊氏は、勅許を待たずに鎌倉に下向し、足利直義と合流して、鎌倉を奪回した。北条時行は、20数日の間鎌倉を占拠していたことになる。北条氏を先代、足利氏を後代とする立場から北条時行を中先代とし、この乱を中先代(なかせんだい)の乱という。この乱の最終段階の激戦が辻堂・片瀬原合戦である。 辻堂・片瀬原合戦8月19日、辻堂・片瀬原合戦では、足利尊氏軍の三浦葦名判官盛員・六郎左衛門尉父子が討死。その他「御方打死人敷」として多くの名が挙げられており、 両軍共に犠牲の多い戦いであった。「辻堂・片瀬原合戦」は、後世に名付けられた合戦名らしく、1559(永禄2)年2月に条氏康が作成した小田原衆所領役帳が「辻堂」の初出とされる。 いずれにせよ、この合戦名には「辻堂」、「片瀬」という鵠沼の両隣の地名が出てくるが、鵠沼の名はない。どうやら大軍が駆け抜けたであろうが、血なまぐさい光景は見られなかったのだろう。
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