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万福寺の板碑しかし、服部清道の調査によれば、万福寺に見られる5例のうち、3例までが鎌倉の古物商より購入したものだということが判明した。これは先代の良月師が、境内から板碑が発掘された折に関心を寄せ、鎌倉の古物商の店頭に並んでいることに心を傷め、供養のために買い取ったといわれている。従ってこれらが元来どこにあったかは不明である。おそらく鎌倉の路傍であろう。 残りの2基は、万福寺境内から出土したもので、室町期以降のものである。 慈教庵・本眞寺の板碑鵠沼地区内に現存の板碑は、万福寺と本眞寺に限られる。万福寺は鎌倉時代に開山したので、境内から出土したものは寺に由来するものであろうが、慈教庵の場合は、創設は1903(明治36)年、現鵠沼海岸三丁目の細川氏邸内であり、その後、1923年の大正関東地震の津波による倒壊、翌年、鵠沼海岸七丁目に場所を移して仮本堂を建て、慈教庵開山=颯田本眞尼(1845-1928)、入寂後、1935(昭和10)年に本堂が完成して本眞寺と改称した。鵠沼地区では最も新しい寺院である。従ってその境内の板碑は、慈教庵時代あるいは本眞寺になってから外から運び込まれたものであろう。うち1例は高根で発掘されたということだが、他の2例についてはどこにあったものか不明確である。 鵠沼地区北部から出土したものならば、万福寺、空乗寺、法照寺など古い北部の寺に運ばれるだろうが、南部の新しい寺に運ばれたということは、南部から出土したと考えるのが自然であろう。 それらがいずれも14〜15世紀の銘があることは、その時代に板碑を設置するだけの宗教的風土がすでに鵠沼南部にも形成されていたことが想定できる。 板碑とは板碑は、板状の石材(主に秩父産の緑泥片岩)の平らな表面に陰刻を施した板石卒塔婆で、鎌倉時代後半に関東に発生し、14〜15世紀に見られた。阿弥陀如来の種子(しゅじ=梵字=サンスクリット文字)であるキリークを中心に被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。分布は関東の鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。蛇足だが、日本におけるサンスクリット学の第一人者、辻 直四郎博士は、1943(昭和18)年から下岡(鵠沼松が岡三丁目)に居住し、1979(昭和54)年9月24日に80歳で没した代表的な鵠沼文化人であった。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[引用文献]
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