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南1933(昭和8)年に町会議員の加藤德右衛門が編著した『現在の藤澤』の1246(寛元 4)年の件に「この頃、三河の齋藤一族、鵠沼に來住。皇大神宮の南方に居を構え、南と稱する」とある。これが、普門寺門前の道を南方に向かい、クランク状になったところを過ぎた左側に鵠沼最大の長屋門を構え、うっそうとした屋敷林に囲まれた邸宅で、地元では「大齋藤」と呼び慣わしている齋藤本家である。 門前の道は清水・苅田町内会の境界線になっており、齋藤家は苅田に属する。というか、苅田きっての名家である。 名家「大齋藤」1853(嘉永 6)年、藤澤宿代官=江川太郎左衛門英龍は、若年寄=本多越中守に従い関東南部の海岸を巡視。鵠沼村より見廻役2名を選抜した。その見廻役の一人となった齋藤六左衛門は、名字帯刀を許されたという。幕末の安政年間には斎藤六左衛門文吉が鵠沼新場(生魚市場)の取締役を代官から命じられている。 明治に入っても、1872(明治5)年までは年番名主制度という、名家が年ごとに交代で名主(庄屋)や村の重役を引き受ける制度があったらしく、明治5年の資料に、明治2年の記録として「鵠沼村、年番名主=小林三左衛門/年寄=齋藤六左衛門・山上八左衛門/組頭=関根庄左衛門」の名が掲載されている。 1873(明治6)年に施行された「区番号制」により、鵠沼村は第17大区・第2小区となった。この際、大江=神奈川県令の「管内区画」により、鵠沼村は第18区2番組となる。第18区戸長には三觜八郎右衛門(羽鳥村)が着任し、第2小区鵠沼村の副戸長には関根伝左衛門、齋藤六左衛門、鵠沼村用掛に就任し、番組扱所を大庭村におくことになった。 翌年には「区番組制」を改め「大小区制」を実施したが、鵠沼村は第18大区第2小区で、区長、戸長等は区番組制下と同一人だった。 1880(明治13)年には鵠沼村の村長(戸長改め)に関根庄左衛門、助役(筆生改め)を齋藤弥五右衛門(多分嫡男)に譲ると共に、齋藤六左衛門は同年の第1回神奈川連合会(議会)、翌年、高座郡各町村連合会が開催された際の鵠沼村議員として出席している。 齋藤弥五右衛門は、鉄道開通を機に始まった鵠沼海岸別荘地および海水浴場開発のための組織「武相倶楽部」が創設された際、今福・三觜・金子・田中ら地元有力者と共に加わり、開発の推進者=伊東将行に協力している。 また、1900(明治33)年、鵠沼村農会が創設されるや、初代会長に就任している。 その後、鵠沼地区南東部が別荘地、高級住宅地として発展していくが、そこへの外来居住者とも代々の齋藤家の方々は積極的に交わり、時に援助の手を差し伸べたことは、髙瀨笑子氏、木村梢氏(邦枝完二の長女)らの文章からも判る。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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