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第0043話 万福寺草創期の伝説

 万福寺住職荒木良正老師は、郷土史に造詣が深く、「鵠沼を語る会」の古参メンバーの一人でもある。
 『藤沢史談』第十号に、老師の手になる「万福寺をめぐる伝説」という大変興味深い伝説の紹介が掲載されている。
 今回はその中から草創期の伝説をいくつか引用しよう。

源海上人の遁世

 万福寺の開基源海上人は、俗姓藤原氏、安藤駿河守隆光といい、武州豊島郡荒木の領主であったが、最愛の二子花寿丸、月寿丸を同時に失い、それを動機に遁世して江ノ島の岩屋に籠って修行した。ところが、或る夜、夢にもあらず、二童児が来って「今東関に権化の僧あり。弥陀の本願を説きて時機相応の教えを弘む。速やかに彼処に至って聖化を受けたまえ。我は観音、勢至の二菩薩なり」と告げて、西方の雲にかくれた。源海上人はこのお告げに従って、常陸国茨城郡稲田郷に赴き、親鸞聖人の草庵を訪ねて、その弟子となり、遂に道徳衆に超えて関東六老僧の随一と称えられた。

聖徳太子尊像の由来

 万福寺に安置してある聖徳太子の木像は、親鸞聖人から源海上人へ形身として附属されたもので、その由来は次のようである。推古天皇の御代、土佐国の海辺に香木が流れついたことがあった。この時、太子は天皇に奏して曰く「今、陛下、仏教を興隆して仏像を造立したまう故、釈梵諸天、徳を感じてこの香木を寄せ奉るなり。」即ち百済の仏師に命じて観世音菩薩の尊像を造らしめて、これを吉野の比蘇寺(ひそでら)に安置し、残りの木を以て、自ら自身の像を刻まれ「末世の凡愚済度のため、我が影像を遺(のこ)す」と仰せられた。後、この尊像は比叡山に安置されたが、慈鎮和尚(慈円和尚)から親鸞聖人に譲られ、聖人はこれを常に崇敬して居られた。時に源海上人は山科の興正寺に住して聖人に給持したが、郷里の武州荒木に赴く際、聖人から「極老再会期しがたし」と仰せになり、落涙の余り秘蔵の尊像を授与されたと伝えられている。

鵠沼の地名と万福寺の創建

 源海上人が阿弥陀如来の木像を感得した時、之を安置する場所を求めたが、今の境内はその頃一面の沼で、鵠(くぐい)という水鳥が棲んでいた。上人は砥上ヶ原を歩いて、この沼の辺ほとりに来ると、笈の中に護持していた聖徳太子の木像が、にわかに大磐石のように重くなって、歩行が困難になった。そこで、こヽを有縁の地として、沼を埋めて、堂宇を営むことにした。里人は木竹、土石を搬んで上人の労作を助けた。これが鵠沼に於ける寺院創建の初めで、時は後嵯峨天皇の御宇1245(寛元 3)年だと伝えている。

万福寺の名称

 万福寺は鵠沼山清光院と号し、世に荒木万福寺と云われる。昔は大庭道場、公孫樹寺等の呼名もあった。また、古くは満福寺とも書いたが、腰越、萩園に満福寺があるので、今の寺号万福寺に改めたと伝えている。

杖の井戸

 万福寺の境内は、昔沼沢地であったため、良い水が得られないので、近くの引地川へ水汲みに出かけていた。或る時、源海上人が諸仏を念じつヽ竹の杖を地に突き立てると、忽ち清水が湧き出した。これが現在の井戸である。この水は味は寒露の如く、夏は冷たく、冬は温かにして、どんな炎天でも涸れることはないという。そして上人が竹の杖を投げて置いたら、それが成長して竹薮になったと伝えている。

竜宮出現の弥陀

 万福寺の本尊の弥陀如来は、源海上人が江の島で感得したもので、竜神が出現し、竜灯を摯げるの奇瑞があったので「竜宮出現の弥陀」と呼ばれていた。昔、房州の漁夫が竜灯の奇瑞を拝し、信仰の余り、如来さまを密かに盗み出して己が菩提所に安置しようとした。すると、その漁夫の一家には、色々と不祥事が起こったので、これは本尊の仏罰だとびっくりして、海へ流してしまった。それが不思議にも鵠沼の浦へ流れ着いて、門徒の手に拾い上げられ、再び当寺に安置された。人々はいよいよ「竜宮出現の阿弥陀如来」だと評判を高め、近郷近在の信仰を集めた。

天狗公孫樹

 1245(寛元 3)年の頃、源海上人が万福寺を創建した時、天狗が現れ、昼餉に用いた公孫樹の小枝二つを地に挿し、“この寺繁昌するならば、枝葉を生ぜよ”と祈願した。すると、これが芽を出し、根を生じ、いつしか空つく大木となった。里人はこれを「天狗公孫樹」と呼び、万福寺を「公孫樹寺」といった。風が強い晩は、樹上に天狗が集会すると恐れられ、樹の下を通る人はなかったと語られている。この二本の公孫樹は、遠く海上から漁船の目標となり、農民の間には「鵠沼じゃ暦はいらぬ。いちょう色づきゃ、麦を蒔く」という古い俚謡があったそうだ。また鉄道唱歌が流行した時、その替え歌にもなり、「右手に鵠沼万福寺………天にそびゆる大いちょう、烏森さえほど近し」と歌われたという。この名木も大正の初め頃、余り大きくて道をせまくし、葬列が通れないために切られてしまった。今の木は二代目である。

重五郎家(や)分

 万福寺の境内の北側に隣れる畑を重五郎家(や)分と呼び、こヽでとれる芋は非常に不味いと言い伝えている。こヽはもと重五郎という物持ち百姓の屋敷であった。源海上人が芋を所望したのを、物惜しみの重五郎が嘘をついて、この芋は不味くて差し上げられませんといった。それ以来、重五郎の畑でとれた芋は不味くて到底食べられなくなった。

源海上人とぐみの木

 「源海上人が師命を奉じ、高田の専空上人と共に、立川流の邪義を破すべく、奥州に下向した時、砥上ヶ原でぐみの木の枝で目を突き刺し、ひどく悩んだことがあった。後に上人は、「わが門徒たらん者は、忘れてもぐみの木を植えるな」と誡めたので、鵠沼付近ではぐみの木を植える者はなく、また、植えても育たないそうだ。」
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用文献]
  • 荒木良正:「万福寺をめぐる伝説」『藤沢史談』第十号(1959)
 
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