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第0032話 大庭御厨の誕生

坂東武士鎌倉氏の荘園

 平 良文の三男忠光の子=忠通は鎌倉氏を称した。居館は鎌倉郡にあったが、領有したのは高座郡南部までだった。
 平安時代後半は、律令制が崩れ、全国各地で武家や公家による私領の荘園経営が行われるようになっていた。
 当時の高座郡南部は、未開発の荒蕪地が多かった模様である。1104(長治元)年、忠通の子=鎌倉権五郎景政は、先祖から相伝した私領の高座郡南部を開拓し、荘園の拡大を目論んだ。
 その範囲は、東は俣野氏の玉輪(玉縄)荘で、俣野川(境川)を境として、南は海、西は神郷(寒川神社領)に接し、北は大牧崎という。大牧崎という地名が現在のどの辺かは明確ではない。「崎」というのは洪積台地、河岸段丘の侵蝕谷合流点によく見られる地名だから、引地川蓼川合流点あたりかも知れない。その北側は渋谷氏の荘園だった。
 開発の拠点は、中心部に当たる大庭に置かれたと思われる。この時代の大庭がどういう土地柄かは不明確だが、延喜式内社の大庭神社が祀られていることから、ある程度の集落があったことは想像できる。
 開発が一段落したのは1116(永久 4)年で、田畑95町(約3万坪)の農地の検注がなされ、国司により正式に認められた。
 景政は「神の威徳を受ける為、伊勢大神宮の御領に寄進した」とされる。これは、国司免判によって成立した国免荘だったため、その免判は国司一代に限られ、常に収公・停廃の危険性があったことから、より安定した荘園経営のために、寄進型荘園を図ったものと思われる。
 かくして、1117(永久 5)年10月23日、伊勢恒吉の斡旋で伊勢神宮に永代寄進がなされた。この段階から「大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ぶようになった。これはおそらく、領内の鵠沼郷に皇大神宮が祀られていたことに由来することが考えられる。寄進後直ちに相模国土甘郷総社神明宮が伊勢神領大庭御厨総鎮守に定められたことでも明かである。
 その後も国司による特権の取り消しは再三行われ、寄進した翌年の1118(元永元)年、1131(大治6)年、1132(天承2)年に特権を再付与(奉免立券)されている。またこの他にも国司の交替の毎に、周囲の開発領主と思われる国衙の在庁官人によって濫妨(らんぼう)されたと伊勢神宮側は訴えている。
 伊勢神宮はその不安定な状態を打開するため、国司の承認による「国免荘」ではなく、より確実な朝廷の承認による荘園とすべく運動を始め、1141(永治元)年に官省符荘に昇格させる 

鎌倉氏から大庭氏へ

 元永年間に平景政の三男景経は、浮浪人を集め荒蕪地を開発、伊勢大神宮内宮に土地を寄進した。
 景政の長男景継は、大庭姓を名乗り、おそらく居館も大庭に定めて、大庭御厨の下司(げし)職を継いだ。
 1144(天養元)年の下司は、景政の直系でなく庶流の大庭景宗だった。大庭景宗は景政の甥の子とも、従兄弟の孫ともいわれている。
大庭御厨年表    
西暦 和暦 記                        事
1104 長治 1     相模国の住人平景政(鎌倉権五郎)、高座郡の私領を開発、伊勢神宮に寄進を企画
1116 永久 4     大庭御厨、国司により正式に認められ、御厨の田畑の検注がなされる
1117 永久 5 10 23 平景政、高座郡の私領を開発、伊勢恒吉の斡旋で伊勢神宮に永代寄進
1117 永久 5     相模国土甘郷総社神明宮、伊勢神領大庭御厨総鎮守に定められる
1118 元永 1     相模国司、大庭御厨に特権を再付与(奉免立券)
1118-1120元永年間 平景政の子景経、浮浪人を集め荒蕪地を開発、伊勢大神宮内宮に土地を寄進
1131 大治 6 相模国司、大庭御厨に特権を再付与(奉免立券)
1132 長承 1     平景政の子景継、大庭御厨の下司職を継ぐ
1132 長承 1 2 5 大庭御厨司平景継、御厨が相模国司に収公されたことについて大神宮禰宜に訴える
1132 長承 1 2 22 大神宮禰宜、平景継の訴えを祭主神祇大副大中臣公長に訴え、祭主は太政官に訴える
1133 長承 2     相模の国解文(下の官司から上の官司へ上申する場合に用いられた文書)なされる
1134 長承 3 ウ12 23 相模守藤原隆盛、太政官の命を受け大庭御厨収公の経緯を述べ、奉免の荘園であることを保証
1134 長承 3     平景政の子景継、大庭姓を名乗る
1140 保延 6 7 20 祭主大中臣親長、伊勢神宮禰宜からの大庭御厨収公意義の訴えを受ける
1140 保延 6 8 10 太政官、祭主大中臣親長からの大庭御厨収公意義の訴えを受ける
1140 保延 6 10 19 相模守平範家、大庭御厨の訴状について太政官から子細を言上するよう命令を受ける
1141 保延 7 6   相模国司解案、大庭御厨成立の由来を記す
1141 永治 1 6   相模守平範家、大庭御厨が奉免の領であることを太政官へ答申する
1141 永治 1     平景政、大庭御厨の住民が逃散し田畑が荒廃することを訴える
1144 天養 1 9 8 源義朝、大庭御厨に乱入。伊介神社の神人8人死傷、鵠沼郷の魚・大豆・小豆等を奪取
1144 天養 1 9 10 伊勢神宮禰宜ら、大庭御厨神人らから義朝乱入につき訴状を得る
1144 天養 1 9 29 祭主大中臣清親(1087-1157)、伊勢神宮禰宜より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る
1144 天養 1 10 4 太政官、祭主大中臣清親より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る
1144 天養 1 10 21 三浦一族千余騎で再度大庭御厨に乱入
1145 天養 2 1   源義朝、鎌倉より俣野川(境川)を越えて大庭御厨鵠沼郷に不法に侵入[天養記]
1145 天養 2 2 3 左弁官、伊勢大神宮司へ大庭御厨乱入事件の首謀者源義朝の乱行停止・犯人逮捕を命ず
1145 天養 2 2 7 大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、伊勢恒吉→神宮祭主
1145 天養 2 2 12 大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、祭主大中臣清親→太政官
1145 天養 2 3 4 左弁官、伊勢大神宮司へ在庁官人らの乱行を停止するよう相模国司に命ずることを約束
1145 天養 2 3   大庭御厨の範囲、東は玉縄庄、西は神郷、北は大牧崎の95町を占める
1145 天養 2     太政官、官宣旨を下して、糾弾して処分を定め、供祭物の備進等を命ずる
1156 保元 1 7 10 大庭(懐島)景義・景親、保元の乱の際、後白河天皇側に与した源義朝の陣に参陣する
1180 治承 4 4 10 源頼朝鎌倉に幕府を開いて以来鵠沼は幕府の直轄となる
1180 治承 4 5   大庭景親、源頼政の挙兵に伴い、平氏の命により上京し、合戦に参加する
1180 治承 4 8 2 大庭景親、宇治より大庭御厨に帰還
1180 治承 4 9   伊豆に旗上げした頼朝が鎌倉へ討入りのおり六本松で大庭三郎景親の軍勢と激戦
1180 治承 4 10 23 大庭庄司平景義(景能)、大庭御厨の本領を源頼朝より安堵される
1180 治承 4 10 26 大庭景親父子、片瀬河原で斬首。処刑者、兄の大庭景義(景能)
1181 養和 1 7 18 鶴岡八幡宮の御神体の引越しに采配を振るため大庭御厨鵠沼神明宮の巫女が呼ばれる
1184 寿永 3     那須与一宗高、弓一張と矢を皇大神宮に奉納、併せて、領地那須野百石を寄進
1185 文治 1 3   那須与一宗高、鵠沼に一社を創建し皇大神宮を勧請、家臣浅間某を看護俸給せしめる
1189 文治 5     頼朝、鷹狩りで大庭御廚に来訪、高座郡渋谷重国館に宿泊[吾妻鏡]
1193 建久 4     大庭氏失脚、大庭城一時廃城となる
1210 承元 4 4 9 大庭御厨庄司大庭景義(景能)、没
1213 建保 1 5   和田合戦で和田一族に与した大庭景兼(景義の子)没。所領大庭御厨没収
1217 建保 5     伊勢神宮の権神主荒木田氏良、内宮一禰宣となる→大庭御厨は荒木田氏子孫が知行
1254 建長 6     北条時頼、大庭御厨のうち、聖徳寺建立の地を卜す
1335 建武 2 8 19 足利尊氏の軍勢が「辻堂・片瀬原の合戦」で、北条時行の軍を破って鎌倉に攻め込む
1452 享徳 1     大庭御厨の地頭がこの頃結城氏となり、上杉伊予守がこれを押領
1457 長禄 1     扇谷上杉氏が大庭御厨の支配権を握り、その家臣太田道灌が大庭城を修理築城
1462 寛元 3     船橋知行之氏経、伊勢神宮禰宜に任じられる→大庭御厨など神宮経営の建て直しに努力
1464 寛正 5 8   太田道潅、荒木田氏経郷より大庭御厨に対して、神役としての河篭米の完済を命ぜらる
1465 寛正 6 3 29 内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の神宮支配の貫徹を依頼
1469 応仁 3 1 26 内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の地方武家の横領について述べる
1469 応仁 3     (文明1)、この頃、太田道灌による大庭城築城完成か
1512 永正 9     上杉朝長の大庭城、北条早雲により落城
1546 天文15     小田原城主北条氏綱、福島伊賀守勝広に大庭付近を与え、大庭城を守らせる
1590 天正18 7 5 「太閤の小田原攻め」の結果後北条氏敗北→遺領は徳川家康支配下に入る
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 伊藤  昌:「鵠沼の歴史(2) 大庭御厨と鵠沼」『鵠沼』第2号(1976)
  • 花輪  桂:「大庭御厨慨史」『鵠沼』第34号(1986)
  • 伊藤  昌:「大庭御厨と鵠沼」『鵠沼』第56号(1990)
  • 吉田 興一:「大庭御厨とその背景 (1) 」『鵠沼』第61号(1991)
  • 吉田 興一:「大庭御厨とその背景 (2) 」『鵠沼』第62号(1991)
 
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