大庭御厨年表 |
西暦 |
和暦 |
月 |
日 |
記 事 |
1104 |
長治 1 |
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相模国の住人平景政(鎌倉権五郎)、高座郡の私領を開発、伊勢神宮に寄進を企画 |
1116 |
永久 4 |
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大庭御厨、国司により正式に認められ、御厨の田畑の検注がなされる |
1117 |
永久 5 |
10 |
23 |
平景政、高座郡の私領を開発、伊勢恒吉の斡旋で伊勢神宮に永代寄進 |
1117 |
永久 5 |
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相模国土甘郷総社神明宮、伊勢神領大庭御厨総鎮守に定められる |
1118 |
元永 1 |
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相模国司、大庭御厨に特権を再付与(奉免立券) |
1118-1120元永年間 |
平景政の子景経、浮浪人を集め荒蕪地を開発、伊勢大神宮内宮に土地を寄進 |
1131 |
大治 6 |
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相模国司、大庭御厨に特権を再付与(奉免立券) |
1132 |
長承 1 |
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平景政の子景継、大庭御厨の下司職を継ぐ |
1132 |
長承 1 |
2 |
5 |
大庭御厨司平景継、御厨が相模国司に収公されたことについて大神宮禰宜に訴える |
1132 |
長承 1 |
2 |
22 |
大神宮禰宜、平景継の訴えを祭主神祇大副大中臣公長に訴え、祭主は太政官に訴える |
1133 |
長承 2 |
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相模の国解文(下の官司から上の官司へ上申する場合に用いられた文書)なされる |
1134 |
長承 3 |
ウ12 |
23 |
相模守藤原隆盛、太政官の命を受け大庭御厨収公の経緯を述べ、奉免の荘園であることを保証 |
1134 |
長承 3 |
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平景政の子景継、大庭姓を名乗る |
1140 |
保延 6 |
7 |
20 |
祭主大中臣親長、伊勢神宮禰宜からの大庭御厨収公意義の訴えを受ける |
1140 |
保延 6 |
8 |
10 |
太政官、祭主大中臣親長からの大庭御厨収公意義の訴えを受ける |
1140 |
保延 6 |
10 |
19 |
相模守平範家、大庭御厨の訴状について太政官から子細を言上するよう命令を受ける |
1141 |
保延 7 |
6 |
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相模国司解案、大庭御厨成立の由来を記す |
1141 |
永治 1 |
6 |
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相模守平範家、大庭御厨が奉免の領であることを太政官へ答申する |
1141 |
永治 1 |
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平景政、大庭御厨の住民が逃散し田畑が荒廃することを訴える |
1144 |
天養 1 |
9 |
8 |
源義朝、大庭御厨に乱入。伊介神社の神人8人死傷、鵠沼郷の魚・大豆・小豆等を奪取 |
1144 |
天養 1 |
9 |
10 |
伊勢神宮禰宜ら、大庭御厨神人らから義朝乱入につき訴状を得る |
1144 |
天養 1 |
9 |
29 |
祭主大中臣清親(1087-1157)、伊勢神宮禰宜より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る |
1144 |
天養 1 |
10 |
4 |
太政官、祭主大中臣清親より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る |
1144 |
天養 1 |
10 |
21 |
三浦一族千余騎で再度大庭御厨に乱入 |
1145 |
天養 2 |
1 |
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源義朝、鎌倉より俣野川(境川)を越えて大庭御厨鵠沼郷に不法に侵入[天養記] |
1145 |
天養 2 |
2 |
3 |
左弁官、伊勢大神宮司へ大庭御厨乱入事件の首謀者源義朝の乱行停止・犯人逮捕を命ず |
1145 |
天養 2 |
2 |
7 |
大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、伊勢恒吉→神宮祭主 |
1145 |
天養 2 |
2 |
12 |
大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、祭主大中臣清親→太政官 |
1145 |
天養 2 |
3 |
4 |
左弁官、伊勢大神宮司へ在庁官人らの乱行を停止するよう相模国司に命ずることを約束 |
1145 |
天養 2 |
3 |
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大庭御厨の範囲、東は玉縄庄、西は神郷、北は大牧崎の95町を占める |
1145 |
天養 2 |
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太政官、官宣旨を下して、糾弾して処分を定め、供祭物の備進等を命ずる |
1156 |
保元 1 |
7 |
10 |
大庭(懐島)景義・景親、保元の乱の際、後白河天皇側に与した源義朝の陣に参陣する |
1180 |
治承 4 |
4 |
10 |
源頼朝鎌倉に幕府を開いて以来鵠沼は幕府の直轄となる |
1180 |
治承 4 |
5 |
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大庭景親、源頼政の挙兵に伴い、平氏の命により上京し、合戦に参加する |
1180 |
治承 4 |
8 |
2 |
大庭景親、宇治より大庭御厨に帰還 |
1180 |
治承 4 |
9 |
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伊豆に旗上げした頼朝が鎌倉へ討入りのおり六本松で大庭三郎景親の軍勢と激戦 |
1180 |
治承 4 |
10 |
23 |
大庭庄司平景義(景能)、大庭御厨の本領を源頼朝より安堵される |
1180 |
治承 4 |
10 |
26 |
大庭景親父子、片瀬河原で斬首。処刑者、兄の大庭景義(景能) |
1181 |
養和 1 |
7 |
18 |
鶴岡八幡宮の御神体の引越しに采配を振るため大庭御厨鵠沼神明宮の巫女が呼ばれる |
1184 |
寿永 3 |
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那須与一宗高、弓一張と矢を皇大神宮に奉納、併せて、領地那須野百石を寄進 |
1185 |
文治 1 |
3 |
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那須与一宗高、鵠沼に一社を創建し皇大神宮を勧請、家臣浅間某を看護俸給せしめる |
1189 |
文治 5 |
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頼朝、鷹狩りで大庭御廚に来訪、高座郡渋谷重国館に宿泊[吾妻鏡] |
1193 |
建久 4 |
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大庭氏失脚、大庭城一時廃城となる |
1210 |
承元 4 |
4 |
9 |
大庭御厨庄司大庭景義(景能)、没 |
1213 |
建保 1 |
5 |
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和田合戦で和田一族に与した大庭景兼(景義の子)没。所領大庭御厨没収 |
1217 |
建保 5 |
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伊勢神宮の権神主荒木田氏良、内宮一禰宣となる→大庭御厨は荒木田氏子孫が知行 |
1254 |
建長 6 |
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北条時頼、大庭御厨のうち、聖徳寺建立の地を卜す |
1335 |
建武 2 |
8 |
19 |
足利尊氏の軍勢が「辻堂・片瀬原の合戦」で、北条時行の軍を破って鎌倉に攻め込む |
1452 |
享徳 1 |
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大庭御厨の地頭がこの頃結城氏となり、上杉伊予守がこれを押領 |
1457 |
長禄 1 |
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扇谷上杉氏が大庭御厨の支配権を握り、その家臣太田道灌が大庭城を修理築城 |
1462 |
寛元 3 |
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船橋知行之氏経、伊勢神宮禰宜に任じられる→大庭御厨など神宮経営の建て直しに努力 |
1464 |
寛正 5 |
8 |
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太田道潅、荒木田氏経郷より大庭御厨に対して、神役としての河篭米の完済を命ぜらる |
1465 |
寛正 6 |
3 |
29 |
内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の神宮支配の貫徹を依頼 |
1469 |
応仁 3 |
1 |
26 |
内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の地方武家の横領について述べる |
1469 |
応仁 3 |
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(文明1)、この頃、太田道灌による大庭城築城完成か |
1512 |
永正 9 |
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上杉朝長の大庭城、北条早雲により落城 |
1546 |
天文15 |
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小田原城主北条氏綱、福島伊賀守勝広に大庭付近を与え、大庭城を守らせる |
1590 |
天正18 |
7 |
5 |
「太閤の小田原攻め」の結果後北条氏敗北→遺領は徳川家康支配下に入る |