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『暫』の鎌倉権五郎第十一代市川海老蔵は、2010年11月25日早朝、何とも不名誉な武勇伝(?)をこさえてしまった。彼の十一代目襲名興行は2004年5月に歌舞伎座で開かれたが、成田屋の襲名では歌舞伎十八番のうち『暫(しばらく)』が演じられることが伝統になっているという。襲名者は主役の鎌倉権五郎を演じる。 『暫』は、荒事の代表的な演目で、皇位へ即こうと目論む、悪党の清原武衡が、自らに反対する加茂次郎義綱ら多人数の善良なる男女を捕らえる。清原武衡が成田五郎ら家来に命じて、加茂次郎義綱らを打ち首にしようとするとき、鎌倉権五郎景政が「暫く〜」の一声で、さっそうと現われ、荒れ狂い、助ける物語である。 舞台上の鎌倉権五郎は、荒唐無稽といえるほどの派手な扮装と隈取りで登場する。 おかげで鎌倉権五郎の名だけは巷間でかなり有名なのだが、歴史上の権五郎は、鵠沼ゆかりの人物といえる。 鎌倉権五郎平景政歌舞伎十八番の『暫』の主人公に鎌倉権五郎が落ち着くのは明治時代になってかららしい。歴史上の権五郎は、第0028話で紹介した平 良文の三男忠光の子=忠通の子(孫とも)に当たる平 景政(景正とも)で、父の代から鎌倉氏を称した。権五郎は通称である。系図は少なくとも3種類あり、どれが正確かは不明という。 16歳の頃、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、片目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。景政は目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したという。 居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。平安時代の由比ガ浜は、大部分が浅い海底にあり、陸上部分も多くは砂浜で、耕地にできる部分は少なかったと思われる。 このことが次項で述べる大庭御厨開設の理由となったのではあるまいか。 御霊神社と権五郎神社鵠沼地区にはないが、藤沢市東部から鎌倉市周辺にかけて、いくつかの「御霊神社」と称する神社が分布している。読み方は「ごりょうじんじゃ」が正しいとされるが、バス停をはじめ、地元の方も「ごれいじんじゃ」と呼ぶことが多い。御霊神社を称する神社は、関西を中心に全国に分布するが、神奈川県東部の御霊神社の多くは関東平氏五家の始祖を祀るという点で他府県のものとは違う。 創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになったという。 鎌倉市坂ノ下の御霊神社は、鎌倉権五郎景政を主祭神として祀り、権五郎神社という別名の方が知られる。例大祭は景政の命日とされる9月18日で、神奈川県指定無形民俗文化財に指定された面掛行列や、鎌倉神楽が行われる。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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