HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0030話 更級日記

更級日記と倭瞿麥

 鵠沼を含む湘南砂丘地帯が文学作品に登場するのは、菅原孝標(たかすえ)(のむすめ)によって平安時代中ごろに書かれた『更級日記(さらしなのにき)』が嚆矢だといわれている。
 そこには、「にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。片つ方は海、濱の樣も寄返る浪の景色も、いみじくおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。夏は倭瞿麥(やまとなでしこ)の濃く薄く、錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬといふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に倭瞿麥の咲きけむこそなど、人々をかしがる。」と出てくる。
 「にしとみといふ所」が現在の藤沢市西富(遊行寺周辺)を指すのかは異論もあるようだが、いずれにせよここから山と離れて浜辺の砂道を進むこととなる。いくら少女の足でも「二三日行く」はちとかかりすぎと思うが、この日記は中年に達してから思い出を綴ったものだから、正確さは期待できない。
 「もろこしが原といふ所」とは平塚のことだと平塚の方々は信じておられる。大磯には高麗山がそびえ、その麓には高麗神社が祀られていて、渡来人が多く住んだと伝えられているから、もろこしが原と呼ばれても不思議はない。
 「倭瞿麥」とは現在の標準和名ナデシコ(学名:Dianthus superbus L. var. longicalycinus)のことで、漢字では撫子と書き、カワラナデシコの別名もある。
 ちなみに平塚市の市の花は、このナデシコである。
 しかし、「もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く」ということは、湘南砂丘地帯全体をもろこしが原といったとも読み取れる。平安時代の海岸線は、現在よりも3km程度内陸、すなわち東海道本線のあたりにあったと考えられている。国道1号に沿う茅ヶ崎市本村4丁目には1591(天正19)年の創建といわれる「海前寺」という寺号を持つ曹洞宗寺院があり、16世紀頃までは間近に海を望む位置であったことが想像される。
 ナデシコは比較的乾燥を好む植物で、砂丘地帯でもよく自生する。都市化が進む1960年代までは鵠沼でも随所に自生が見られたが、現在はめっきり減少した。
 会誌『鵠沼』第3号に川上清康氏が寄せた「私と鵠沼」の中に次の一節がある。
 「その頃(※震災前)の海は、真に椅麗で片瀬迄は砂丘と松林が続き、辻堂に近い方では防風が一ぱい採れたものである。又松林には松露を採りに行き、到る処撫子や月見草が咲き、赤い蟹が庭先や台所口をはい廻っていた。」
 今日、「やまとなでしこ」というと日本人女性への賛辞を意味し、特に古来美徳とされた、清楚で凛とし、慎ましやかで男性に尽くす甲斐甲斐しい女性像を指す。これは植物としてのナデシコの可憐なピンク色の花の美しさと、ひ弱に見えながら荒れ地でも育つ逞しさからきているのだろう。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [参考サイト]
[参考文献]
  • 渡部 瞭:「鵠沼の生き物あれこれ」『鵠沼』第101号(2010)
 
BACK TOP NEXT