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源義家1057(天喜 5)年11月、八幡太郎義家が奥州鎮撫の途次皇大神宮に祈願奉幣したと『列官社』にあるそうだ。この時は、鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父源頼義が安倍氏と戦った「前九年の役」に従ったもので、数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験した。その後出羽国の清原氏の応援を得て父頼義はやっと安倍氏を平定する。 第0015話で紹介したように源 頼義は、1030(長元3)年9月、下総の乱を鎮定するため懐島郷(現茅ヶ崎市)に源家の守護神石清水八幡宮を勧請して鶴嶺八幡宮として祀り、戦勝祈願をした。 「前九年の役」の際、義家が鶴嶺八幡宮に戦勝祈願をした記録があるので、鶴嶺八幡宮から奥州に向かう途中に鵠沼にも立ち寄ったのであろう。 「前九年の役」は、実際は1051(永承6)年から1062(康平5)年までの長期戦で、「奥州十二年合戦」と呼ばれていた。これが「前九年の役」と呼ばれるようになったのは、源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、「奥州十二年合戦」から「後三年の役」を引いた(これは別の戦いなので、誤解による)という説があるらしい。 大イチョウ鶴嶺八幡宮の社殿脇にある大イチョウは源義家が戦勝を祈願して自ら植えたと伝えられ、樹齢約950年。1962(昭和37)年10月2日、県指定天然記念物。1984(昭和59)年12月、かながわ名木百選に指定されている。前九年の役が終わった1063(康平6)年、頼義は鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である「元八幡」を建立した。源氏と鎌倉との縁がここに始まる。1081(永保元)年2月には源義家が修復を加えた。 八幡太郎義家の曾孫に当たる源 義朝は鎌倉・亀ヶ谷(かめがやつ)に館を構え、大庭御厨(おおばのみくりや)鵠沼郷を襲い、その子頼朝は征夷大将軍として鎌倉に幕府を開く。 頼朝は1180(治承4)年鎌倉に入るや直ちに由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、 1191(建久2)年には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鶴岡(つるがおか)八幡宮として鎌倉の町づくりの中心とした。 鶴岡八幡宮石段の左には樹齢800年とも1000年余ともいわれる大イチョウがあった。 1219(建保7)年1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があったことは、文部省唱歌『鎌倉』に詠われたことからよく知られている。 1955(昭和30)年、神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれていた。 2010(平成22)年3月10日4時40分頃に、強風のために根元から倒れた。倒れた大イチョウは3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された。残る2つは境内に保存されている。 鵠沼の皇大神宮にも三の鳥居の両側にイチョウの巨木がある。いわれは定かでないが、秋の黄葉はなかなか見事である。ところで、ここ数年、黄葉の季節の途中で枝を落とす作業が加えられるようになった。毎日の落ち葉の清掃が大変なことが理由と思われるが、樹形が著しく損なわれるので、余り賛成できない。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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