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第0023話 古墳期の遺跡、遺物

鵠沼地区の古墳時代遺跡

 鵠沼地区の古墳時代の遺跡は、弥生時代と大きく変わってはいない。北西部の鵠沼神明地区に集中している。
 鵠沼西宮越遺跡(万福寺付近)、鵠沼西宮越遺跡(空乗寺付近)から土師器が出土した記録があるが最近は発掘されていない模様である。
 気になっているのは、空乗寺の近くにあり、同寺の山号にもなっている「金掘塚」の存在である。塚そのものは今は失われ、どこにあったかも正確な位置は判然としない。
 明治初期、地元の里長關根傳左衛門が里人と相談してこの塚を発掘したところ、「髑髏ふたもゝ脚骨四つ」を掘り出し、それを一つの甕に納め、懇ろに葬りの業を営んで、1879(明治12)年2月に「首塚碑」を建てた。この碑は風化して判読不能の部分があるが、現存する鵠沼最古の記念碑である。この碑については、後に別項を立てて詳述する。
 碑文を判読すると、「この塚は古くから存在したが、何の塚かを知る人はなく、金掘塚、首塚、庚申塚などとりどりに呼んでいた」らしい。
 発掘の結果、人骨が出土したので、戦死した武士を葬った首塚であると判定したが、どの時代のものかは決定できなかった。「永正の頃、殊に国のうち乱れて戦いの巷になったので、その頃のものと思われる」としている。
 「永正の頃」というのは、1512(永正 9)年、北条早雲により上杉朝長の大庭城が落城した時のことを指すのだろう。
 一つの甕に納めたという骨がどこに葬られたのか判然としないが、これが見つかれば、現代科学の力で年代測定が可能であろう。これが古墳時代の高塚式古墳(多分円墳)である可能性もあると睨んでいる。
 藤沢市内には、村岡地区の前方後円墳「狐塚」の他、片瀬、藤沢の砂丘地や石川、長後の台地上に高塚式古墳が築造されるが、その数は少ない。

大源太遺跡と新林の横穴古墳

 片瀬地区に属するが、鵠沼東から片瀬川の対岸にあるミネベア鞄。沢製作所の社屋や工場棟などの建設工事にともない、数次にわたって発掘調査が実施された。その結果、縄文時代の前期や晩期の遺物をはじめ、弥生時代の遺構や遺物が確認されるとともに、古墳時代から奈良・平安時代にかけて集落が営まれていたことが明らかになり、大源太(おおげんた)遺跡と名付けられた。
 これより先、1933(昭和8)年に東京螺子製作所の敷地拡張の地ならし工事のため、「スクモ塚」という高塚古墳が削られ、直刀5、剣1、鎌1、鉄鏃7、鹿角製鐔(つば)1が発見され、鎌倉の長谷寺に保管されているという。「スクモ塚」より南側からは石棺も発掘されたが、遺失した。また、西側からは土器類も多数見つかり、長谷寺に納められた。
 また、その背後にある新林公園や川名の神光寺周辺には多くの横穴式古墳が穿たれた。おそらく、この古墳に葬られたのは、大源太に集落を形成した人々と思われる。
 この地点は、縄文後期から弥生時代には、三角形の入江の奥に境川、柏尾川の形成する複合三角州があったと思われ、古墳から奈良時代には湾口が砂嘴によって塞がれた「古鵠沼湖」ともいうべき潟湖(せきこ)となり、平安から鎌倉時代にはこれが湿原になっていったと考えられる。
 大源太に集落を形成した人々は、海上交通と陸上交通の結節点にあって、流通に関する仕事で経済的に潤った生活を送ることができたに違いない。河川は出水のたびに流路を変えたであろうから、大源太以外にも鵠沼側にも同様な集落が形成されたことが考えられるが、残念ながら鵠沼側では遺跡は発見されていない。

 この部分に関しては、遺跡の発掘調査報告書などを精査していない。いずれ、新事実が判明したら、書き加えるつもりである。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [参考サイト]
[参考文献]
  • 内海恒雄:『江ノ電沿線歴史散歩―藤沢編』江ノ電沿線新聞社(1996)
 
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