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相模国府の謎西日本では地方豪族の争いの中からいわゆる大和朝廷が奈良盆地を拠点に勢力を集中させ、海を渡った中国や朝鮮半島とも関係を持つような時代になっても、「あらゑびす」の跋扈する東国は、かなり無秩序な状態が続いたいたのではなかろうか。大化改新により大和政権の勢力が東国にも及び、国司が派遣されるようになっても、相模国は不安定な状況が続いていたことは、国府の位置があちらこちらと移動したらしいことからも想像できる。こんな国は他にはない。 通常、国衙、国分寺、一之宮の三点セットが揃ったところが国の中心であり、ここに国司が着任するのだが、相模国の場合、国分寺は海老名にあり、一之宮は寒川である。国衙(こくが)は平塚から大磯に移ったとされる。国分寺は海老名に置かれる前に小田原に置かれたともいわれ、ここに先ず国衙があったはずだという説もある。また、国分寺の置かれた海老名に最初の国衙も置かれたと説く人もあるといった具合だ。 国分寺の置かれた海老名と一之宮の置かれた寒川との間の相模平野には、口分田時代の条里制の遺構と判定できる地割りが残っていた。中央政府の行政姿勢を受け止めた地域と判断できるだろう。 相模国の行政拠点形成には、相模川の存在が大きな役割を果たしていたことは間違いない。 相模川から離れていた鵠沼あたりは、国府からの影響は遅れて届いていたのではないだろうか。 高倉郡から高座郡に高座郡は、記録の上では相模國のなかでも最も早く、675(天武4)年の『日本書紀』天武記に「相模國言、高倉郡女人生三男」として登場する。高倉郡は後に高座郡として郡の呼称が変わっているが、これは713(和銅6)年の風土記撰進の命の「郡・郷名に好字をつける」という命により高座郡という郡名が定着したものだと解釈されている(神奈川県史)。 高倉郡は「太加久良」(たかくら)と読まれ(『和名抄』)、同じく高座郡も「たかくら」と呼ばれていた。 「くら」の語源については、ガケである。すなわちタカクラとは、高いガケの意」という説と、高座郡の地域がその地勢から見て「クラ」の意については合致しないとして、その地名の由来をこの地方に正倉が置かれていたことから、「高い倉」のあるところと解釈する説の二つが代表的である。 上図の大住国府と余綾国府との間、大磯町東部には高麗山が聳え、山麓には高麗(高来)神社が祀られている。高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)とされ、周辺には渡来人が多く住んだと伝えられる。666(天智5)年の『日本書紀十月条』に、高句麗から来日した進調使「二位玄武若光」が見え、これが高麗王若光であるとされる。 716(霊亀2)年の『続日本紀五月条』に「武蔵國高麗郡を新設するため、相模、武蔵、下野、駿河など7か国の渡来人1799人を移した」とある。 武蔵の新座郡は、新羅人を中心に758(天平宝字2)年に郡が置かれた当時は、新羅郡であった。平安時代に入って新座郡に変わり、「にいくら」と呼ばれた。中世になって新座郡は新倉郡と書き、同じく「にいくら」と呼ばれた。そして近世に入ってからは「にいざ」と呼ばれるようになった。 相模の高座郡は初め高倉郡と書かれていたが、高座郡に変わり、いずれも「たかくら」と呼ばれてきた。こちらも「こうざ」と呼ばれるようになったのは近世になってからである。 相模の高座は高句麗系渡来人の地域として、高句麗をあらわす「高倉」「高座」(たかくら)という地名となったことがわかる。一方、武蔵の新座は新羅人を中心につくられた郡が、新羅の「新」を残して「新座」「新倉」(にいくら)という地名となったのではないだろうかという説もある。 いずれにせよ、海老名に国分寺が置かれ、寒川に一之宮が置かれており、いずれも高座郡西部であるといことは、相模国の始まりは、相模川沿岸からと考えられる。ここは相模国における水田耕作最適地だったからではないだろうか。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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