|
鵠沼地区の弥生時代遺跡弥生時代には海退が進み、北部から海岸平野=湘南砂丘地帯が形成されていった。おそらく西部は現在の東海道本線以南まで陸化が進んだが、東部は氷河期に形成されていた境川(片瀬川)による海底谷が潜んでいたために、三角形の入り江が形成され、その西岸は北東―南西方向に延びていたと思われる。その第一砂丘列が第0002話で採り上げた「新田山砂丘列」になったのではなかろうか。その入り江の湾口には、西からの沿岸流により、砂嘴が延びてきた。1901(明治34)年の『東京人類学会雑誌』第16巻181号に鵠沼村字下藤ヶ谷で新遺跡発見という八木奘三郎の記事が掲載され、鵠沼地区における遺跡発掘に関する最初の記録となっている。 この遺跡の位置は、先述の砂嘴の先端部と思われ、砂嘴伝いにやってきた人々が、引き潮を待って湾口部あるいは片瀬川を対岸の片瀬に渡る拠点になっていたのではないだろうか。 一方、1943(昭和18)年、日本精工敷地内から弥生式土器の完形品が発掘されている。鵠沼西宮越遺跡(万福寺付近)、鵠沼西宮越遺跡(空乗寺付近)から土師器が出土した記録があるが最近は発掘されていない模様である。 この鵠沼神明地区には鵠沼では最も古くから人間活動が見られたと考えられるが、大規模な集落などは未だに発見されていない。 洪積台地上のような、表土が関東ロームでできている場所では、竪穴式住居の柱坑や竈跡などが崩れずに残りやすいが、海砂が堆積した海岸平野上では、遺跡が残りにくいためとも考えられる。 相模野洪積台地の南端に近い稲荷には、市内最大の弥生時代集落跡が見つかっており、ここの住民が漁労や潮干狩りのために容器を持参して鵠沼の浜辺に下りてきていた可能性もある。 近年では、大型建造物建設の際に行われるボーリングのコアや、考古学的な発掘などから地形形成史を装幀する研究が神奈川災害史研究会の上本進二らによって進められており、その成果に期待したい。 この部分に関しては、遺跡の発掘調査報告書などを精査していない。いずれ、新事実が判明したら、書き加えるつもりである。 |
||
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
|
[参考サイト] |
||
[参考文献]
|
||
BACK TOP NEXT |