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第0014話 鵠沼といえば松

 郷土資料展示室の仕事をしていると、小学校から老人会まで様々な団体に鵠沼について解説する機会がある。ある時「太陽の家」の目の不自由な方々にお話をする機会があった。目の不自由な方は鵠沼をどのように感じるのだろうか。解説の準備のためいろいろ思い巡らしているとき、ふとあることに気づいた。いわゆる「五感」のうち視覚に障害がある場合、他の「四感」をフル稼働して障害を補うことだろう。中でも聴覚は最も重要ではなかろうか。鵠沼の特色を聴覚で知る場合、何が最も適切か。鵠沼らしい音、それは何だろう。
 大正時代、鵠沼に住んだ小説家島田清次郎が詠んだ次の歌がある。
 「鵠沼は淋しい海辺 松風と 波の音ばかり 訪ふ人もなし」
 この歌を紹介しようと思って、「松風」という言葉はあるが、他の植物の名に風の字を加えた二字熟語はなかなか見当たらないと気づいたのである。「松風」の語はすでに『万葉集』にも詠まれ、『源氏物語』の段にも用いられているし、能にも『松風』がある。もっともこれは女性の名だが。
 大正初期に鵠沼に住んだ哲学者、和辻哲郎の随筆集に『松風の音』がある。
 また、芥川龍之介が鵠沼に幽棲する谷崎潤一郎を訪ねたときの句に
 「松風や 紅提燈も 秋隣」
というのがある。しかし、鵠沼に住むようになると龍之介にとって松風が恐ろしい存在になった。『鵠沼雑記』に次の件(くだり)がある。
 「僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴は何ともない。僕はをととひも二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団をかぶるか、妻のゐる次の間へ避難してしまふ。」
 一方、鵠沼の松をこよなく愛した人物に歌人與謝野晶子がいる。
 「鵠沼の松の間に来てあそぶ 波かと見ゆる春の雪かな」1920.3 東家にて
 「鵠沼の碧瀾荘をおとずれて 松とある日の春の夕かぜ」1930.4 碧瀾荘にて
 「たそがれの露台に立てば悲しくも 海より深き松原の見ゆ」同上
 「三月や墨紫の松原の 十四五町のよひやみのいろ」1939.3 鵠沼ホテルにて
 「鵠沼はひろく豊かに松林 伏し春の海下にとどろく」1939.3 鵠沼海岸にて
 「春の夜の星より高くさしかはす 松の枝がちの浜の宿かな」同上
 「鵠沼の花もあらざる満目の 松の間にうぐいすの啼く」同上
 このときのウグイスの声は、死の半年前、晶子の病床に届くのである。
 「鵠沼の松の敷波ながめつつ 我は師走の鶯を聞く」1941.12 病床にて
 晶子の愛した鵠沼の松は、おそらく明治後半になってから鵠沼海岸別荘地の開発によって植栽されたもので、歴史は浅い。1882(明治15)年に測量された地形図を読むと、砂丘上にしか松林(針葉樹林記号)は見られない。現在「鵠沼松が岡」などという住居表示がつけられた一帯は、ほとんど不毛の砂原で無人地帯だったのである。
 しかし、「本村」と呼ばれた鵠沼北西部では、松林は屋敷林としても一般的だった。『鵠沼』98号の拙文で紹介した森 志げ女が『青鞜』創刊号に寄稿した『死の家』には、「松の木の多い鵠沼村でも、此松は優れて大きく高いので、乳母は自慢してゐたのである。」と出てくる。
 海岸沿いのクロマツ砂防林は、大正関東地震の際に起こったフィリピン海プレートの跳ね上がりによる鵠沼海岸で90cm程度の地盤隆起に伴う海退で砂浜の面積が拡がり、飛砂の害が増えたことによる。1928(昭和3)年の神奈川県による昭和天皇御大典記念事業の一つとして大規模な魚附海岸砂防林造成が行われた。その後、湘南遊歩道路(県道片瀬大磯線→国道134号)が敷設され、観光地開発が進められた。ところが、戦時中にクロマツが資源として注目され、松根油(しようこんゆ)採取のための伐根、燃料用の盗伐が行われ、飛砂の堆積により湘南遊歩道路が通行不能になるほどだった。この状態は敗戦後間もなく駐留米海軍の重機を用いた作業により短期間で復旧し、県は茅ヶ崎にあった海岸砂防事務所を鵠沼に移し、湘南砂防事務所と改名して活動を再開した。
 1959(昭和34)年には皇太子殿下御成婚記念植樹も加えられたが1961(昭和36)年の第2室戸台風、1966(昭和41)年の26号台風による強風や潮風、さらにこの間の異常乾燥やマツノザイセンチュウ(学名:Bursaphelenchus xylophilus (Steiner & Buhrer) Nickle)によって、国道の南側を中心に壊滅的な被害を受けた。
 鵠沼に見られる松(二葉松)はクロマツ(学名:Pinus thunbergii)である。本州に分布する二葉松には他にアカマツ(学名:Pinus densiflora)があるが、海岸から20km程度内陸に入らないと自生が見られない。クロマツは1970(昭和45)年10月1日藤沢市の市の木に制定された。また、湘南海岸は日本の松の緑を守る会から1987(昭和62)年「日本の白砂青松100選」に選ばれ、湘南海岸のマツ林は神奈川県環境農政部森林課から1989(平成元)年「かながわの美林50選」に選ばれている。
 戦後もしばらくは、篭を背負い熊手を持って松林に松葉掻きに行く光景が見られた。竈や風呂の燃料にするのである。松葉は油分が多く、火力はあるが煤がつきやすいのでやっかいだった。都市ガスの普及と共に松葉掻きの光景は消えた。松葉掻きの光景が消えたことによって消えたのがショウロ(学名:Rhizopogon rubescens)である。腹菌亜綱イグチ目ショウロ科に属するキノコで、小さいジャガイモのような子実体は春と秋、海岸などのクロマツ林の幹から少し離れた地上に、環状に砂に埋もれた状態で発生する。松の枝先から落ちた露から生じたように見えることから松露と名付けられたという説がある。独特の芳香があり、高級食材として珍重された。拙宅の庭でも、1950年までは採集できた記憶がある。この年に東京に一時転居し、3年半後に戻ったら消えていた。湘南砂丘地帯の特産物として、辻堂駅の開業当時、ハマボウフウ(学名:Glehnia littoralis)と共にホームで売られたと聞く。ハマボウフウも一時姿を消し、1979(昭和54)年4月17日に伊藤節堂会員が鵠沼海岸のサイクリング道路で再発見したことが『鵠沼』9号に紹介されている。現在、辻堂の愛好者団体「湘南みちくさクラブ」が復活に熱心に取り組み、成果を得ている。藤沢宿の老舗和菓子店「豊島屋本店」では、銘菓「浜防風」が参勤交代の土産として有名で、ショウロの香りを生かした「松露羊羹」は、1914(大正3)年の大正博覧会や1922(大正11)年の平和博覧会などで金牌を獲得、葉山御用邸御用達となった。これらは現在でも製造販売されている(「浜防風」は注文生産)。
 鵠沼のクロマツ林に生える食用キノコとしては、ハツタケ(学名: Lactarius hatsudake)、アカハツ(学名: Lactarius akahatsu)も記録されているが、筆者は認識していない。マツタケ(学名:Tricholoma matsutakeS.Ito et Imai Sing.)は主にアカマツ林に生えるため、残念ながら鵠沼にはない。
 クロマツ林の生態系は、かなり様々な制約が加わるため下草は貧弱で種類も限られる。そうした中でラン科ではハマカキラン(学名:Epipactis papillosa var. sayekiana )とクゲヌマラン(学名:Cephalanthera erecta var.shizuoi )がほぼ同様の環境下で生育する。ことにクゲヌマランは、標準和名に鵠沼がついた唯一の生物なので、鵠沼を語る会の諸先輩が熱心に取り組んでこられた。会誌『鵠沼』の16、88、93の各号に詳細な成果が掲載されている。塩澤、諏訪、番場各氏による「再発見」は辻堂地区だったが、現在は鵠沼地区内でも自生が確認されている。
 1989(平成元)年に架け替え工事が完成した境川「境橋」(江ノ電鵠沼駅東方)の欄干にはクゲヌマランのレリーフが飾られている。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[引用文献]
  • 渡部 瞭:鵠沼の生き物あれこれ―ゆかりの生物と外来生物―『鵠沼』101号(2010.9)
 
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