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第0013話 通称地名

 鵠沼地区には、先に紹介した集落名、小字名、住居表示、これから紹介する公的道路や交通機関に関する駅名やバス停名以外にも各種のいわば非公式の地名が多数見られる。
 成立年代別に分類すると、1.江戸時代以来の伝統的なもので、現在ではほとんど用いられないもの。2.明治・大正期の鉄道開通から別荘地開発に伴って生まれたもの。3.関東大震災復興期から戦前の住宅地化で生まれたもの。4.戦後の都市化で生まれたものの4段階に区分できる。

江戸時代以来の伝統的な地名

区分 地名 よみがな 備      考


車田 くるまだ 由来には諸説あり。小字名だが、引地に含まれる場合がある
奈須野原 なすのがはら 那須与一が神明宮に寄進したことにちなむか
金堀塚 きんくつづか 金が埋まるとの伝承があった塚。空乗寺の山号となる。
1879(明治12)年人骨が出土。首塚が建てられた
ビッタリ   由来は未調査
六本松 ろっぽんまつ 古戦場
一本松 いっぽんまつ 東海道本線の踏切名に残る
池袋 いけぶくろ 清水と苅田の間。袋地名だが知る人は少ない
茂兵衛台 もえんだ 警察署東の共同墓地のあるところ。近所に茂兵衛の家があった
新田山 しんでんやま 新田集落南方にある鵠沼地区最高点の砂丘。海抜約25m
高砂 たかすな 藤沢駅南方の砂丘列。江ノ電現石上駅の旧停留所名
河岸 かし 由来は未調査。港が置かれた
石上渡船場 いしがみとせんば 江乃島道片瀬川の渡船場
川袋 かわぶくろ 片瀬川の西方への曲流で生じた袋状地形。袋地名
ミズアカ   由来は未調査。砂丘間低湿地で地下水位が高いからか
三角山 さんかくやま 原南部の小砂丘。知る人は少ない
桃座山 ももざやま 堀川西方の小砂丘。知る人は少ない
高砂 たかすな 標高18.4mの砂丘。子供の砂滑りの遊び場だったという
地蔵袋 じぞうぶくろ 引地川の西方への曲流で生じた袋状地形。袋地名
紋十郎河岸 もんじゅうろうがし 由来は未調査。
大曲 おおまがり 通説では海岸通りを塞ぐようにあった砂丘列を人力車が上れないので、
仲通りまでの曲がり角だというが、片瀬川の屈曲点を示す地名と思う。
松波 まつなみ 由来は未調査。交差点の名になっている。案外新しい地名かも。
鰯干場 やしば 地引き網漁場。干鰯(ほしか)の干し場



係 
東海道 とうかいどう 五街道の第一。江戸初期に整備され、一級国道
引地橋 ひきじばし 東海道の引地川に架かる土橋だった。4か村の共同管理
万福寺通り まんぷくじどおり 古刹万福寺門前の通り
仏堂道 ほとけどうみち 一本松から普門寺観音堂(大東公民館)に通ずる通り
江乃島裏街道 えのしまうらかいどう  橘の辻から石上渡船場に至る道
綱撚り場 つなよりば 鵠沼中学南側の道。直線部が長く、地引き網の綱を撚った
新田道 しんでんみち 新田と納屋を結ぶ道。地引き網に通う道だった
本道 ほんみち 中井と堀川を結ぶ鵠沼村のメインストリート
浜道 はまみち 堀川三叉路から竜宮橋を超えて地引き網漁場に向かう道

明治・大正期の鉄道開通から別荘地開発に伴って生まれたもの



名 
百両山 ひゃくりょうやま 単なる松山が百両の高値で買い取られたことからといわれる
鵠沼海岸別荘地 くげぬまかいがん
べっそうち
大給子爵の所有地を伊東将行らが道路整備し、クロマツを植樹して開発
販売した日本初の大型別荘分譲地



中学通り ちゅうがくどおり 旧鎌倉道の一つ。湘南中学開校に伴い整備され、現在もこう呼ばれる
上村橋 かむらばし 引地川を越え、羽鳥村と結んだ。昔は川中島があり、東側の橋名
清水橋 しみずばし 引地川を越え、羽鳥村と結んだ
石上通り いしがみどおり 旧江乃島道の石上の呼び名
仲通り なかどおり 鵠沼海岸別荘地開発の基幹線といわれる。東屋門前に至る
東仲通り ひがしなかどおり 現在の基幹線。天金料理店が面するので一般に天金通りとも呼ばれる
海岸通り かいがんどおり 江ノ電鵠沼駅と鵠沼海岸海水浴場を結ぶメインルート
藤ヶ谷橋 ふじがやばし 鵠沼松が岡中央の湿地から片瀬川に注ぐ細流に架けた海岸通りの橋
肥上げ道 こえあげみち 辻堂村の農民が片瀬の旅館街の下肥を運ぶため公用地に敷設した道
日の出橋 ひのでばし 肥上げ道が引地川を越える橋
一の橋 いちのはし 公民館前の道が古川(堀川排水路)を越える橋
鵠栄橋 こうえいばし 古川を超えて商店街と海水浴場を結ぶ橋
鯉取橋 こいとりばし 肥上げ道が古川を渡る橋
竜宮橋 りゅうぐうばし 浜道と鰯干場を結ぶ引地川の橋
片帆橋 かたほばし 海水浴場入り口の古川(時には引地川)に架かる橋

関東大震災復興期から戦前の住宅地化で生まれたもの



瑙住宅地 たかせ 瑙彌一が大正後期に開発分譲した定住住宅地。海軍軍人が購入
宮崎町 みやざきちょう 新田山の南方の砂丘一帯を占めた宮崎寛愛邸と周辺
熄シ山 たかまつやま 熄シ分家所有地の砂丘。モモ畑から分譲別荘地となった。拙宅がある
富士見住宅地 ふじみ 昭和初期に川袋低湿地を埋め立てた住宅分譲地。開発者不詳
小川町 おがわちょう 現上岡バス停付近の砂丘を崩した住宅地。砂は川袋埋め立てに使用
柳小路住宅地 やなぎこうじ 1922(大正11)年、中根氏はじめ3軒が別荘を構え、開発が始まる
松島苑住宅地 まつしまえん 瑙彌一の親類山口寅之輔が大正末〜昭和初期に開発分譲
堀川田 ほりかわだ 鵠沼堰完成によって耕地整理が行われた鵠沼地区最大の水田地帯



橘通り たちばなどおり 藤沢駅南口と瑙彌一邸正門を結ぶ道。商店街になった
大東道 おおひがしみち 一本松踏切から南下する新道。1927(昭和2)年完成。記念碑がある
上郎通り こうろうどおり 上郎新二邸前に通ずる道。瑙通りの続き
熄シ通り たかまつどおり 熄シ山東麓の道上郎通りの続き
山口通り やまぐちどおり 上岡から松島苑を経て江ノ電鵠沼に向かう道。高砂通りとも
原町通り はらまちどおり 本鵠沼駅から堀川三叉路に向かう道
熊倉通り くまくらどおり 瑙彌一の鵠沼新道最南部区間。熊倉氏は証券業者とか
一木通り いちきどおり 藤沢町長一木與十郎邸前を通ることから1931(昭和6)年に命名
学園通り がくえんどおり 道路は明治期からある。1933(昭和8)年開校の湘南学園通学路
鵠沼銀座 くげぬまぎんざ かなり古い道だが小田急開通により商店街として発展した
湘南遊歩道路 しょうなんゆうほどう 県の国際観光地化政策の手始めに敷設された県道片瀬大磯線の通称
境川橋 さかいがわばし 旧片瀬県道が片瀬川を渡る橋
大平橋 たいへいばし 大野守衛町長と開発者平沼覚治郎の頭文字から命名された
作橋  さくばし 鵠沼銀座から西へ進み、八部公園前から引地川を渡る橋
鵠沼橋 くげぬまばし 湘南遊歩道路が引地川を渡る橋。4車線に拡幅された。
渚橋 なぎさばし 湘南遊歩道路が古川を渡る橋。4車線に拡幅された。

戦後の都市化で生まれたもの



第一蓮池 だいいちはすいけ 鵠沼高校グランド脇に残されたかつて7つあった蓮池の残骸
第二蓮池 だいにはすいけ 桜小路公園の池。外来生物の宝庫



八間道路 はちけんどうろ 大東から引地川まで、県道予定地が先行敷設された砂利道
湘南新道 しょうなんしんどう 1961(昭和36)年開通した県道30号戸塚茅ヶ崎線の愛称
鵠沼新道 くげぬましんどう 1963(昭和38)年開通した市道鵠沼海岸線の愛称。鵠沼新道は他にも
ファミリー通り   藤沢駅南口から石上通りに向かう商店街。1996(平成8)年に命名
マリンロード   鵠沼銀座のモール化により1992(平成4)年に公募で改称
新川名橋 しんかわなばし 県道32号藤沢鎌倉線が片瀬川を渡る橋
奥田橋 おくだばし 新林小学校通学路として片瀬川に架けられた
新屋敷橋 あらやしきばし 片瀬山住宅地に上る道路が片瀬川を渡る橋
境橋 さかいばし 江ノ電鵠沼駅東方の片瀬川の橋。欄干にクゲヌマランのレリーフ
高山橋 たかやまばし 東海道本線北側の道路が引地川を渡る橋
富士見橋 ふじみばし 湘南新道が引地川を渡る橋。パナソニック撤退で富士が見える
長久保みどり橋 ながくぼみどりばし 長久保都市緑化公園に向かう引地川の歩行者自転車専用橋
稲荷橋 いなりばし 鵠沼新道が引地川を渡る橋。そばに伏見稲荷があることから命名
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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