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鵠沼は全国的に見ても豊かな文化的環境に恵まれた土地柄だと思うが、お隣に鎌倉という別格官幣大社(古いねェ)が控えているために、大幅にソンをしている。
何しろテキは、わずか140年ばかりとはいえ、日本の政治的中心だった(よく「古都鎌倉」というが、天皇の在所があったわけではないので、「宮処=みやこ」ではなく、「古都」というには難点がある)し、「鎌倉時代」という時代の名前になっているので、義務教育段階からイヤでも覚えさせられる。すなわち、日本人なら誰でも知っている地名なのである。とても藤沢の太刀打ちできるところではない。ましてや難読地名=鵠沼においておやというわけだ。 で、この差はどこから来るのかということを、今回は地理的環境から考察してみよう。 茅ヶ崎市の県立鶴嶺高校に勤めていた時、授業でこんな冗談を言ったことがある。 鶴嶺高校の校名の由来は、学校が旧鶴嶺村に所在することにあるのだが、その鶴嶺村の由来は、鶴嶺八幡宮の存在にある。鶴嶺八幡宮は、1030(長元3)年9月、源 頼義が下総の乱を鎮定するため懐島郷(現茅ヶ崎市)に至り、源家の守護神石清水八幡宮を勧請して鶴嶺八幡宮として祀り、戦勝祈願をしたことによる。 1051(永承6)年、「前九年の役(安倍一族の反乱)」が起こり、陸奥守となった頼義の応援に向かった長子、源 義家(石清水八幡宮で元服したことから 八幡太郎と称する)が懐島郷に入り、鶴嶺八幡宮で戦勝祈願をした。前九年の役が終わった1063(康平6)年、頼義は鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である「元八幡」を建立し、鶴嶺八幡宮はその旧社であることから「本社八幡宮」といわれるようになった。すなわち、鶴嶺八幡宮と鶴岡八幡宮は、共に源 頼義によって祀られた兄弟社であり、鶴嶺は鶴岡の兄貴分だということになる。 八幡太郎義家の曾孫に当たる源 義朝は鎌倉・亀ヶ谷に館を構え、大庭御厨鵠沼郷を襲い、その子頼朝は征夷大将軍として鎌倉に幕府を開く。かくして源氏が東国に進出する第一歩として祀った最初の氏神社が鶴嶺八幡宮というわけである。 頼朝が幕府を開くにあたり、祖先が祀った茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮と鎌倉の鶴岡八幡宮のどちらを選んだかというと、防衛拠点としての地形上の理由から一も二もなく鎌倉を選んだ。頼朝に武家としての地理的センスがなかったなら、最初の氏神社のある茅ヶ崎を選んだかも知れない。もしそうならば、日本の歴史に鎌倉時代でなく、茅ヶ崎時代があったことになるというわけだ。 わずか標高160m弱だが、険阻な丘陵に三方を囲まれ、海からの入口は万葉集にも詠われた崩れやすい海蝕崖に阻まれる鎌倉の地形は、まさに難攻不落の地である。西に相模川があるとはいえ、無防備に展開する湘南砂丘地帯とは明らかに違う。 鎌倉の居住空間としての魅力は、丘陵の浸食谷「谷戸」にある。谷戸毎に御家人の館が構えられて防備にあたり、鎌倉五山などの寺院が開かれた。鎌倉への出入口は「七口」といわれる7つの切り通しに限られる。鉄道の時代になってからも、トンネルを潜らなければ鎌倉に出入りできない。 この隔絶性が現代に至っても居住空間としての魅力を生み出している。あたかも背もたれの高い安楽椅子のような座り心地の良さがあり、これに比べると湘南砂丘地帯はベンチのようなものだ。 北側の丘陵は冬の季節風を遮り、温暖な気候をもたらす。12月いっぱい紅葉が見られ、年を越すと間もなくスイセンやウメが香る。四方を山で囲まれた盆地の奈良や京都と違い、南に海が拡がる鎌倉は、夏の海風が涼しさを運ぶ。 鎌倉の魅力には面積的なコンパクトさがある。歩き回って苦にならない範囲に史跡や社寺がまとまる上、ハイキングコースや海水浴場まである。かくして鎌倉駅のホームには草履、ハイヒールからトレッキングシューズ、ビーチサンダルが混在することになる。これらは多くの観光客を呼び寄せるだけでなく、市内に住む人々に変化に富んだ散歩先を選ばせる。鎌倉は実に散歩向きの都市なのだ。社寺は四季折々の花を競う。鎌倉ほど社寺と花に関する書物が多種発行されている都市を他に知らない。 幕府滅亡後も関東管領が置かれて室町時代までは都市的要素が残ったが、上杉氏敗走後の鎌倉は急速に寂れ、低地には水田が拡がる状態が続いた。江戸に幕府が置かれ、町人文化が発展すると、大山や江の島、金沢八景を結ぶ参詣観光ルートが人気を呼ぶようになり、人々の往来も増えたが、明治になっても段葛の両側は水田だった。 鎌倉再発展のきっかけは、横須賀線の開通によるところが大きい。東海道線が国府津まで引かれてすぐに、海軍鎮守府の置かれた横須賀への支線敷設が、複雑な地形をトンネルを剔って突貫工事で進められた。 横須賀線の開通によって魅力が生まれたのは、鎌倉よりさらにコンパクトな逗子である。海軍の高級将校が居を構え、一方で徳冨蘆花や泉 鏡花が名作を生み出す。 明治時代の鎌倉には泉 鏡花、島崎藤村、夏目漱石、高山樗牛、国木田独歩らが住むが、いずれもごく短期間である。明治末から鎌倉に居を構え、生涯を過ごしたのは俳人の高濱虚子であり、大正に入ると有島生馬、木下利玄らがこれに続き、佐佐木信綱も別荘を構える。海軍教官時代の若き芥川龍之介や、広津和郎、葛西善蔵も数年間鎌倉に住んだ。しかし、「鎌倉文士」と呼べるような文化人の集住と交流が見られるようになるのは、関東大震災の復興期以来のことである。 震災後間もなく鎌倉に転居してきた文士に久米正雄、里見 怐A小牧近江、吉野秀雄、松本たかし、林 不忘、小林秀雄がおり、昭和に入ると大佛次郎、吉野秀雄、今日出海、北畠八穂、小島政二郎、深田久彌、高見順、さらに永井龍男、川端康成と続いた。彼らは1933(昭和8)年の「鎌倉アマチュア写友会」を皮切りに、「鎌ニュー会」、「汽車会」、「鎌倉同人会」などの交流活動をすると共に1934年には『海の謝肉祭』(第1回鎌倉カーニバル)を開催するなど、地域文化の興隆にも積極的に関わった。こうした戦前の鎌倉文士活動の集大成が1936(昭和11)年結成された「鎌倉ペンクラブ」だといわれる。 また、疎開や戦災からの避難で中山義秀、真杉静枝、荻原井泉水、蒲原有明、久保田万太郎、真船 豊、山口 瞳、村松梢風、村山知義らが鎌倉文士の仲間入りし、戦後民主主義の興隆の中で「鎌倉文庫」や「鎌倉アカデミア」といった市民文化への取り組みが行われた。 これに呼応するように、鵠沼でもその小型版のような活動が見られた。その双方に関わったのが鵠沼在住の林 達夫だった。このことは別に項を設けて詳説する予定である。 1950年代以降には立原正秋、小津安二郎、中村光夫、吉屋信子、永井路子、煖エ和巳らが鎌倉に居を構える。 このように層の厚い鎌倉文士は、鵠沼文士と違いがあるのだろうか。 鵠沼で活動した文士は、別荘地を仕事場として選び、永住するつもりでなかった場合が多い。鎌倉文士の多くはある程度の成功を得てから、永住の予定で鎌倉に居を構え、実際に鎌倉で没し、鎌倉に墓所がある例が少なくない。 鎌倉には永住したくなる魅力があるのだ。 その鵠沼との違いを考えてみよう。 自然環境から見ると谷戸の魅力である。クロマツを中心とする砂丘地帯は、乾燥して植物相が乏しいのに対し、照葉樹林に覆われた鎌倉の谷戸は、湿潤で緑濃く、豊かな植物相に恵まれている。また、生息する動物相も豊かである。ことに、鳥のさえずりや蝉の鳴き声などの音が彩りを添える。特にヒグラシやツクツクボウシは、鵠沼で聞く機会は少ない。針葉樹林と広葉樹林の違いからである。これらが谷戸という立体的な地形から、風音と共に背後に身近である。これらの魅力を、ノーベル賞作家川端康成は『山の音』という小説の題名に一言で表現したのはさすがといえよう。 社会環境から見ると、歴史の層の厚さが挙げられる。史跡や社寺が適当に配置され、先にも記したように多種類の散歩コースを選べるし、各種の展示施設や古書店、古美術店を巡るのも楽しい。居住する文化人の層も厚く、様々な交流によって刺激し合うこともできる。また、文化に対する行政の姿勢にも学ぶべきところが多い。 終わりに、藤沢市と鎌倉市の名誉市民の一覧表を紹介しよう。 |
名誉市民一覧 |
藤沢市 | 鎌倉市 | |||||
片山 哲 | 元総理大臣 | 1969 | 川端 康成 | 作家 | 1969 | |
降旗 徳弥 | 元松本市長 | 1969 | 小倉 遊亀 | 日本画家 | 1995 | |
内山 岩太郎 | 元神奈川県知事 | 1970 | 横山 隆一 | 漫画家 | 1996 | |
深沢 松美 | 元松本市長 | 1970 | 加瀬 俊一 | 外交評論家 | 1998 | |
金子 小一郎 | 元藤沢市長 | 1972 | 永井 路子 | 作家 | 1998 | |
和合 正治 | 元松本市長 | 1977 | 吉田 秀和 | 音楽評論家 | 2007 | |
片岡 球子 | 日本画家 | 1990 | 蓮田 修吾郎 | 金属造型作家 | 2007 | |
有賀 正 | 元松本市長 | 1993 | 平山 郁夫 | 日本画家 | 2007 | |
加藤 東一 | 日本画家 | 1997 | ||||
田島 博 | 友禅作家 | 1999 | ||||
岡崎 洋 | 前神奈川県知事 | 2003 | ||||
葉山 峻 | 元藤沢市長 | 2004 | ||||
菅谷 昭 | 松本市長 | 2005 | ||||
山本 捷雄 | 前藤沢市長 | 2010 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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