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第0011話 片瀬川

 鵠沼地区東縁を流れ、片瀬地区との境界をなす片瀬川は、奈良〜平安期には固瀬川と書かれ、他に方瀬、型瀬、潟瀬などとも書かれたという。名称の由来は、片瀬の文字から連想される「この川の両岸は片方が瀬で、もう片方が淵になっているから」という説が広く知られているが、これはどの河川にも当てはまるので説得力はない。この川が流れ込む片瀬東浜は、遠浅で海底傾斜が緩やかで、平坦である。また、江の島の島陰になるので、波が穏やかである。こういうことから、穏やかな寄せ波が引き波になる前に次の寄せ波が打ち寄せるように見える。このような波を「片瀬波」というから片瀬の地名がついたともいわれる。寄せるばかりで返さないことから、男女間の「片想い」になぞらえられ、これを題材にした流行歌や映画も生まれた。
 全体の名称は境川であり、片瀬川はその下流部の通称だから、相模川と馬入川、多摩川と六郷川の関係と共通する。境川は1594(文禄 3)年、豊臣秀吉没後行われたいわゆる「太閤検地」の際に「高座川を相武の国界とし、境川と称す」として新たに命名されたもので、それまでは全体を高座(たかくら)川(多加久良川・高倉川あるいは田倉川とも)と呼んでいた。高座郡の東の郡境をなしていたからである。最上流は高尾山南麓の草戸山でこの辺では大地沢という流れである。かつては部分的に様々な河川名が見られ、田舎川(大和市付近)、飯田川(中上流部)、俣野川(中下流部)、音無川(藤沢宿付近)などが知られる。固瀬川はそれらよりも古くからの河川名であった。

流路変遷

 洪積台地相模野を浸食し、谷底平野を形成してきた境川は、旧藤沢宿南側に形成されていた砂嘴から発達したと考えられる最北の砂丘列を削って海岸平野・湘南砂丘地帯に流れ出す。谷底平野でも曲流(蛇行)が見られるが、海岸平野に出ると、砂地になるので侵食がたやすく、曲流の幅が大きくなる。
 上中流では相武すなわち相模国と武蔵国の国境をなしていた境川は、中下流部では高座郡と鎌倉郡の郡界をなす。かつての郡界線は旧流路を示すと思われるから、それを辿ってみると、先ず奥田付近で北へ深く屈曲し、さらに石上付近から西に、曲がりくねっている。郡界線はどの時代に確定したものかは、調べていないが、1700(元禄13)年の『藤沢御殿絵図』にも大きく深く西に屈曲する片瀬川の姿が描かれている。先人はいみじくもこの地を「川袋」と名付けた。「袋地名」は、河川の曲流によって形成される屈曲部に名付けられ、引地川の「地蔵袋」も知られる。全国的には池袋、沼袋が有名だろう。
 近代測量学が導入されて最初の地形図である1882(明治15)年測図の二万分一迅速図『藤澤駅』によれば、後に江ノ電が通るあたりまでの屈曲が残っているが、ほぼ現在の流路に近くなっている。1917(大正6)年9月30日の出水でショートカットが行われ、現在の流路が確定した。しかし、大水の度に急流路を突進した水は、江ノ電の土手を突き崩したりしている。
 川袋低湿地と蓮池については、千一話の中に別項を立てる予定である。

片瀬川の河口

 現在鵠沼海岸一丁目と片瀬海岸三丁目との境、すなわち鵠沼地区と片瀬地区との境、かつては高座郡と鎌倉郡との郡境は、肥上げ道が小田急とぶつかるあたりから、湘南海岸公園中央の海風のテラスへと直線的に伸びている。余りにも直線的なので人為境界線のようだが、江戸時代のある時期まではここが片瀬川の河口だったのである。
 享保の改革の一環として湘南海岸に置かれた鉄炮場の見取り図には、片瀬古川の名でこの川が描かれ、引地川は肥上げ道あたりをずっと東流し、直接海に出ずに、片瀬古川に注いでいる。

感潮河川片瀬川

 私の最後の勤務先となった神奈川県立深沢高等学校の運動場は、片瀬川の支流・柏尾川のいざという場合の遊水地となるように造られていた。校舎は丘陵の山腹にあったが運動場は八反目(はため)と名付けられた元水田地帯で、最寄りのバス停名に残っていた。この辺の柏尾川は、すっかり三面張りの護岸になっていたが、それでも植物が生え、水鳥の姿も見かけた。川面を覗くと、干満の差をかろうじて読み取ることができた。すなわち、この辺までは感潮河川だったのである。むしろ、本流の境川は、堰跡橋(えんせきばし)あたりで瀬になり、感潮区間は終わる。
 片瀬川の河口から新屋敷橋(あらやしきばし)上流付近までの間、両岸に隙間なくプレジャーボート類の係留が見られる。これは長期間不法係留として取り締まりの対象とされてきたが、2003年4月から藤沢市は、この不法係留区域を「暫定係留区域」とした。これは取りも直さずこの付近までが感潮河川であるのみならず、両岸の水深がボートの係留や転回に十分であることを示す。
 1211(建暦元)年、鴨 長明が飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向し、将軍源 実朝と会見する前、砥上が原で固瀬川を渡る際、次の歌を詠んだ。
 「浦近き砥上が原に駒とめて固瀬の川の潮干をぞ待(まつ)」
 この歌から、鎌倉時代初期の片瀬川には橋はおろか渡し舟もなかったことが判る。
 鴨 長明の渡河地点はどの辺だったのだろうか。「浦近き」とあるから海岸のそば、「砥上が原に」とあるから鵠沼地区内と考えたい。鵠沼側の鎌倉時代の遺跡は、江ノ電鵠沼駅近くの「下藤ヶ谷遺跡」が最南端である。引地川側には、「八部遺跡」、「藤原遺跡」がある。ここは大庭御厨の最南端集落である。従って、人跡を辿って歩を進めるならば、これらの遺跡を連ねるルートが「浦近き」ルートということになるだろう。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 真船 豊:『片瀬川』東京朝日新聞(1938.7)
 
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