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1987(昭和62)年、「ふるさとの川モデル事業」の指定を受け、大庭遊水地の建設で洪水を防ぐと共に、親水護岸や川べり遊歩道の設置など、市民に親しまれる川への取り組みが進められている。 名称の由来は、藤沢市稲荷付近で砂丘を切り割って河道を付け替えたからという説が有力である。それ以前の流路は千ノ川を通って現在の茅ヶ崎市高田付近で相模川旧流路に注いでいたと思われる。私は1975(昭和50)年、開校準備段階から、茅ヶ崎市円蔵に開校した県立鶴嶺高校に13年間も勤務したが、学校の南方にこの千ノ川が流れていた。当時は相模川旧流路の水田地帯も存在していたが、用水は相模川左岸用水路から供給されていたため、千ノ川は都市化の進展する中で地域住民の下水路としてしか認識されず、悪臭を放つ有様だった。かつては流域に細長い水田地帯があり、千ノ川は農業用水を供給していたのである。河川規模は小流に過ぎないが水田規模はかなり大きかった。これは千ノ川の流量がかつては大きかったことを物語る。人為的に引地川に分水した結果、小流になってしまったのではなかろうか。 この「引地」の工事がどの段階で行われたか明確な答は見あたらない。読み方は「ひきち」「ひきぢ」「ひきじ」などが橋の名などに見られるが、公的には「ひきじ」で統一されている。 全体の統一名は引地川だが、上流から様々な河川名が別称として言い継がれてきた。鵠沼地区内では、上流側で「清水川」下流側で「堀川」と呼ばれてきたが、現在は用いられなくなった。 流路の変遷旧東海道「引地橋」は江戸時代は土橋で、稲荷、大庭、羽鳥、鵠沼の4か村がここで境を接していたので、共同で橋の管理に当たった。この引地橋の位置は変わらなかったが、ここより下流は砂丘地帯を流れるため、大水の度に流路がつけ変わるほど曲流が著しかった。近代的な測量技術による地形図が制作されるようになってからも、地形図が発行される度に流路の違う引地川の姿が見られるという状態が昭和に入るまで続いた。ことに現在の大平橋(たいへいばし)あたりから下流は西へ大きく曲流し、「地蔵袋」と呼ばれていた。この命名の由来は未調査である。 この部分がショートカットされ、現在見られる直線的な流路に改修されたのは、1933(昭和8)年に着工し、翌年末完工という驚くべき突貫工事で行われた神奈川県の事業によってである。この事業は、鵠沼堰開設による堀川田の整備、地蔵袋の交換分合など大きな問題を戦後にまで引きずることになったが、千一話に数項を設けなければ説明できないほど複雑である。 河口部もこの時直線化されたのだが、波浪で破壊される度に河口は東に移動することが繰り返され、最終的にしっかりしたコンクリート護岸により固定化されたのは、戦後の1954(昭和29)年のことだった。 引地川の利用片瀬川と比べると河川としての規模は小さいから、舟運は盛んでない。古記録を見ると、1775(安永 4)年2月に「石川村までの通船許可」とあるから、そのあたりまで遡る高瀬舟はあったのだろう。川幅が狭いだけに橋の数は片瀬川より多い。また、古来用水堰建設や水車揚水も盛んだった。一方、水質の汚染も目立った。上流にサツマイモ栽培の中心地があり、アルコールの醸造や澱粉の工場が散在し、その残渣を利用する養豚業も「高座豚」としてブランド化した。これらの諸施設から排出される物質が引地川の水質を悪化させ、魚が大量死する事件が頻発したり、鯉ヘルペスが流行したりした。 藤沢市は1969(昭和44)年、全国に先んじて「河川をきれいにする都市宣言」を発した。皮肉な言い方をすれば、河川が汚かったからである。ちょうどこの頃から高度経済成長のひずみが「公害問題」という形で全国各地に表面化していた。 真っ先に取り組まれたのは下水道の普及である。すでに1950年代に南部から始まっていたが、まだ10%程度だった普及率は、順調に上昇し、21世紀に入る頃には90%台に達した(下図)。 川のごみを取り除くための除塵機は1990(平成2)年に引地川上村橋下流に設置された。 こうした取り組みが功を奏した2000(平成12)年、環境システムのトップメーカーである荏原製作所が、排水設備の不備から環境基準の8000倍を超すダイオキシンを引地川に垂れ流す事件を起こしたことは極めて残念なことであった。 しかし、環境を守ろうという市民の取り組みも熱心に進められ、引地川に清流が戻り、サケの遡上も報告されるまでになった。最下流部の水辺では、カヌーの練習をする子どもたちの姿を目にすることができる。1981(昭和56)年に発足した湘南カヌースポーツクラブの活動する姿である。.彼らの中から既にオリンピック選手を輩出している。 |
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E-Mail: | 鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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[参考文献]
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