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第0002話 鵠沼を区切る新田山砂丘列

 鵠沼の最高点は、藤沢駅南西方にある海抜約25mの砂丘で、地元で「新田山」と呼ばれている。
 北麓に江戸時代中期に開かれた新田の集落が並んでいるからである。


 上は1882(明治15)年に測図された1:20,000迅速図「藤澤駅」の鵠沼村域を土地利用によって着色したものである。
 村域の中央部を濃い緑色の針葉樹林(もちろんクロマツ林)が北東―南西方向に延びているが、等高線を読むと顕著な砂丘列であることが判る。その北端付近が新田山、その北側に並ぶ二つの橙色が新田の集落である。
 この砂丘列は、場所により地主の名前から「高松山」「斎藤山」、あるいはテリハノイバラの群落が見られたところから「バラ山」と呼ばれた部分もあるが、総称して「新田山砂丘列」と呼んでおこう。
 さらに読図すると、この新田山砂丘列の西麓に沿って、新田集落から細い道が続いていることが判る。この細道は「新田道」と呼ばれる道で、実は拙宅はこの道の中間部に沿った砂丘の中腹に位置する。この道は針葉樹林の途切れる辺りで波状の実線を横切る。この波状の実線は農業用水路で、これをたどってみると皇大神宮北側の池に発し、針葉樹林の途切れた先にある乾田(冬には水を落とす水田)に続いていることが判る。この乾田は、江戸時代末期に新田集落の人々によって開かれたもので、その先の小さな集落を「納屋(なんや)」と呼ぶ。いわば新田の出村である。
 集落地理学を学んだ方ならば、納屋というと九十九里平野に見られる「納屋集落」を想起されるだろう。九十九里平野は海岸線に平行して海岸平野が形成されていったため、内陸から海岸に向かい、岡集落―新田集落―納屋集落と並んでいることが多い。同じ集落名を冠した○○岡―○○新田―○○納屋が、ほぼ直線上に並び、新田同士、納屋同士の海岸線からの距離もほぼ同じで、海岸平野の発達と共に出村を形成していった過程が読み取れる。

 さて、上図によれば、この新田山砂丘列を境に、北西部と南東部とでは土地利用に大きな差が見られることに否が応でも気づかされる。すなわち、北西部の大部分が集落あるいは耕地として利用され尽くしているのに対し、南東部は新田山東方の石上集落付近を除き、広漠たる砂原あるいは草地の展開する無人地帯だったのである。
 これは、1728(享保13)年に幕府鉄炮方=井上左太夫貞高が享保の改革の一環として湘南海岸に相州炮術調練場(鉄炮場)を設置した跡地であって、当時は人家はおろか田畑を作ることも厳しく制限されており、この図の測図された段階では鉄炮場は廃止されていたが開発の手は全く進んでいなかったからに他ならない。
 この地が開発されるのは、1887(明治20)年7月11日、鉄道(後に国鉄、現在はJR)が開通した頃からのことである。
 なお、図の上部を「東海道」の注記(右読み)のついた平行直線が横断しているが、図の発行された段階では鉄道予定線である。開通5年前のことだから、既に工事は始まっていたかも知れない。右端の平行線が3本になっている部分は、藤澤停車場予定地である。すなわち藤澤停車場の位置は、村界に近い鵠沼村内にあった。鉄道開通後、村界が移動して村外となったと思われる。この移動がいつであったかは調べがついていない。

 この新田山砂丘列が北西部と南東部とに大きな差が見られることは、MENUページに記したように、歴史的には北西部が1100年の伝統を持つ旧大庭御厨以来の半農半漁村、南東部は110年の歴史しかない海岸リゾートという二つの地域で構成される土地柄だということだ。
 この砂丘列による差異は、この当時ほどではないにせよ、今日まで鵠沼を二分している。
 多少大げさに言うと、それは文化の差にも及んでおり、鵠沼の二面性を生み出している。それらの具体例は、この千一話のメインテーマとして展開していくつもりであり、楽しみにして頂きたい。

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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 
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