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第0213話 鵠沼文化人百選 その014 草土社の若手画家

 鵠沼郷土資料展示室の次期展示(2011.10.15~2012.1.15)の題目が《鵠沼と岸田劉生》に内定した。

草土社とは

 白馬会の《葵橋洋画研究所》で外光派表現を学んだ岸田劉生と木村荘八は、文芸雑誌『白樺』で紹介されたゴッホやセザンヌなど新印象主義の画風に強く感銘し、1912(明治45)年に斎藤与里・高村光太郎・萬鉄五郎など同志とともに結成したヒューザン会(後にフューザン会と改名)においてその影響を色濃く反映した作品を発表する。翌年の2回展をもって同会は解散するが、劉生と木村は巽画会展洋画部に審査員として参加。この展覧会に出品した清宮 彬・椿 貞雄・中川一政・横堀角次郎・中島正貴・高橋三千夫、そして豊橋出身の高須光治が草土社のメンバーとなった。1915(大正4)年、劉生らは飛田角一郎・柳沢菊次郎を加え、現代の美術社主催第1回美術展覧会を開催。これが実質上の草土社第1回展となり、以後、田村憲・河野通勢らが同志に加わる。草土社の名は当時、劉生が代々木界隈の赤土と草を好んで写生したことに由来するす。このころ劉生はデューラーやファン・アイクなど北方ルネサンスに傾倒し、自ら「写実的神秘派」と称して写実を極めていた。他の同人もこれに追随し、時代に逆行するとの批判を浴びながらも、いわゆる草土社風とよばれる特質を生み出す。
 岸田劉生が転地療養のため鵠沼に転居すると、劉生を慕って草土社の若手画家の何人かは鵠沼の貸別荘を借りたり、劉生宅に寄食して世話を焼いたりして親交を深めた。
 「鵠沼文化人百選」は個人を紹介してきたが、今回だけは集団を紹介する。

椿 貞雄

 つばき さだお 洋画家 (1896(明治29)年2月10日-1957(昭和32)年12月29日) 出身地 山形県
【学歴】正則中学中退
【プロフィール】
 草土社、春陽会会員、大調和展を経て国画会会員。岸田劉生門下。1896年椿英夫、たけの三男として米沢市上花沢仲町に生まれる。長兄信男は「白樺」を愛読し水彩画を描く青年であったが夭折した。貞雄が画家を志すに至ったのはこの兄の感化による。1914年上京、正則中学に席を置く。同級に横堀角次郎がいた。同年10月、田中屋画廊で劉生の個展を見て感動、翌年弟子入りする。劉生の最も忠実な弟子として常に劉生とともにあった。特に鵠沼時代は師と至近に家を借り、毎日のように往来した。1932年渡欧、フランス、オランダ、スペインを旅する。パリ・ギャレリーカルミーヌで個展を開く。
【鵠沼とのゆかり】
 鵠沼松が岡2-6林別荘(八軒別荘)8号に居住(1920.2.1-1923.1初)。
 1917年、劉生が鵠沼に転居すると、しばしば訪ねて来るうち鎌倉の長与善郎夫人の妹を見初め鵠沼に住むようになる。師と恋人の近くに住みたかったのであろう。恋は実り鵠沼で結婚する。「鵠沼海岸小景図」「鵠沼の或る道」(1)(2)(3)(4)「片瀬川」など鵠沼を題材とした作品も多い。

横堀角次郎

 よこほり かくじろう 洋画家 (1897(明治30)年2月17日-1978(昭和53)年) 出身地 群馬県
【学歴】正則中学
【プロフィール】
草土社創立同人 春陽会会員 岸田劉生門下 群馬県勢多郡大胡町に生まれる。前橋中学3年の時、東京の正則中学に転校した。盟友、椿貞雄とは同級生である。油絵を描いていた椿の手引きで油絵を始め、劉生を知る。草土社展に出品のあと、第1、2回春陽展で連続して春陽賞を受賞。第3回には無鑑査となった。ユーモラスな人柄で角さん角さんと人々に慕われた。
【鵠沼とのゆかり】
 鵠沼松が岡3丁目植文の貸家から鵠沼海岸2丁目中屋の貸し別荘に居住 (1921-1922.6)、のち中屋の2階に間借り(1922.6-1923.9)する。
 劉生鵠沼時代に鵠沼に住み常に往来する。1923.9.1の大震災のとき、目を怪我した劉生の妹照子を負ぶって劉生一家の避難を助けた。春陽展に「鵠沼小景」を出品している。『アトリエ』《劉生追悼記念号》昭和5年2月アトリエ社刊に「鵠沼時代の思い出」という一文を書いている。劉生に倣って絵日記を付けていたとあるから、もし横堀日記が現存するならさらに詳しい鵠沼時代の様子が分ろうというものである。。

中川一政

 なかがわ かずまさ 洋画家 書家 歌人 1893(明治26)年2月14日-1991(平成3)年2月)  出身地 東京都 墓所:雑司ヶ谷霊園
【学歴】錦城中学校
【栄誉】1961年歌会始召人 1975年文化勲章
【著書】詩集『見なれざる人』 『モンマルトルの空の月』
【プロフィール】
 1893年東京本郷西片町に生まれる。父中川政朝、母すわ。1914年21歳の時初めて油絵「酒蔵」を描く。1915年草土社結成、同人となる。10月第1回、翌年4月第2回展、入場料は取らず目録を売ったが入場者僅少。浄土宗の「帰命無量壽如来」をもじって中川は「入場無料入場無い」という草土宗のお経を作った。1922年春陽会設立客員となる。1923年関東大震災により草土社は事実上解散、伊藤暢子と結婚。1939年中国に旅行。1949年神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを持つ。1953年北米、南米、ヨーロッパの諸都市を巡遊。1958年訪中団団長として中国を訪問。
 1962年ミュンヘンのバィエルン独日協会の招きで渡欧。1963年1964年中国、1965年訪ソの後、英仏伊など9ヶ国を巡遊。1975年訪中、11月文化勲章受賞。1982年米国ニューヨーク、ワシントン、ボストン、フィラデルフィアの美術館見学。6度目の訪中。1989年3月真鶴町立中川一政美術館開館。生涯に油彩、水墨岩彩、書、篆刻などの発表多数。
【鵠沼とのゆかり】
 鵠沼の劉生宅(佐藤別荘、松本別荘の両方)を何度となく訪れ、1917年、鵠沼の風景を描いた作品がある。

岡崎精郎

 おかざき せいろう 洋画家 農民解放運動家 (1898(明治31)年12月21日-1938(昭和13)年1月4日)出身地 高知県
【学歴】高知県立第一中学
【栄誉】種間寺に「岡崎精郎先生之碑」が高知県農民により建立される
【プロフィール】
 幼少より図画に秀で画家を志し19歳上京草土社展の岸田劉生の作品に感銘。1918年、郷土の先輩水彩画家の寺田季一をたより上京、硲伊之助に師事する。5月鵠沼の劉生宅を訪問、劉生の書生として7ヶ月余り住み込み指導を受ける。この間劉生は《岡崎精郎之顔》をデッサンしている。草土社同人となるも病を得て帰郷、聖書を読み宗教活動中に部落差別を知り解放運動に専心する。秋川村村長、高知県会議員をつとめる。1935年頃から農民を主題とした絵を描き始める。
【鵠沼とのゆかり】
 鵠沼松が岡4-7-10(1918.6-1919.2)劉生宅に寄食。その後も上京の都度、劉生宅を訪問する。滞鵠中「鵠沼風景」「湘南風景」「轍のある坂道」他を描いた。笠間日動美術館蔵の「麗子の像」には「麗子嬢之像、於相州鵠沼 岸田劉生先(生)画描 一九一八年秋 師岸田劉生先生ヨリ之ヲ賜ル 岡崎精郎識」の裏書がある。

棟方寅雄

 むなかた とらお 洋画家 (1902(明治35)年3月27日-1992(平成4)年8月11日) 出身地 青森県
【学歴】弘前中学校→東京聖学院神学校
【栄誉】青森県文化賞 青森県褒賞
【著書】『劉生と私』
【プロフィール】
 中卒後上京、大阪住友銀行、新聞記者などの職に就く。1921年、劉生に師事。その後、東京聖学院神学校に学び、1927年、再度絵の勉強を志し林重義、中川一政に師事。1929年東京城西学園中学教諭。春陽、二科、日展、中央美術、国際美術の各展に入選。1955年、二科分裂にともない一陽会創立に参加、同会審査員。
著書『劉生と私』緑の笛豆本の会(1966)刊は鵠沼の劉生宅に書生として住みこんだ当時の様子を回想して書いたもので劉生の家の間取りや劉生の生活が書かれていて興味深い。
【鵠沼とのゆかり】
 鵠沼松が岡4-7-10にあった貸し別荘、松本陽松園の岸田劉生宅に書生として寄食(1921年3月から5月まで、1921年12月から1922年3月まで)した。

丸山行雄

 まるやま ゆきお 洋画家・尋常高等鵠沼小学校教員 (生没年月日不詳) 出身地 長野県
【学歴】不詳。師範学校以上の学歴を有していたと思われる。
【プロフィール】
 《村娘之図》(1919年)が出品された第7回草土社展を観て感動し、それをきっかけとして劉生に師事することになったといわれる。草土社解散後、「春陽会」創立とともに春陽会へ移り、のちに哲水と号する陶芸家に転じたという。
【鵠沼とのゆかり】
 1919(大正8)年暮れの雨の日に劉生宅を訪れて書生を志願したらしい。
 1月22日に信州の国許から電報が来て翌日帰省する。劉生は2月20日に医者(恐らく髙松貞夫)に診断を受けたついでに丸山から託されていた履歴書を持参し、丸山の当地教員就職の斡旋を依頼する。翌日夜に尋常高等鵠沼小学校第2代校長=斉藤三郎が来訪し、とんとん拍子に丸山の就職が決まった。
 丸山がいつ鵠沼に戻り、小学校に着任したかは、劉生の日記から読み取れない。劉生夫妻は4月上旬に京都・奈良に旅行していたので、その間のことと思われる。鵠沼小学校校長は、4月1日付で第3代土方義道に替わった。
 『村娘像』のモデルだった葉山(川戸) 松さんは鵠沼小学校尋常科に通学していたが、「丸山先生がもう時問がくると、「葉山、帰れよ」って、毎日その時間がくると先生がね。帰れっていわれれば、ハイって帰ってってすぐ岸田さんへそのモデルになって。」と、85歳の時に思い出を語っている。
 小学校の教員になったことによって、書生として劉生宅での寄食をやめ、恐らく植文の二階に間借りした。後に横堀角次郎も暫く同居する。
 後に福田医師の養女の家庭教師となり、福田家の二階に住んだが、1923(大正12)年4月に結婚して東京に住むことになり、学校を退職し鵠沼を去った。
 劉生の死去に際し、追悼文を寄せている。

草土社 鵠沼関係年表
    
西暦 和暦 記                        事
1916 大正 4     現代の美術社主催第1回美術展覧会を開催。これが実質上の《草土社》第1回展
1917 大正 6 2 22 画家=岸田劉生、鵠沼の佐藤別荘に移住
1917 大正 6   画家=中川一政(1893-1991)、佐藤別荘の岸田劉生宅に1か月ほど滞在
1917 大正 6 6 24 画家=岸田劉生、松本別荘(鵠沼下岡6732-13・現鵠沼松が岡4-7-10)へ移る
1918 大正 7 6   画家=岡崎精郎(1898-1938)、岸田劉生宅に寄食
1919 大正 8 2   岡崎精郎、岸田劉生宅を離れる
1919 大正 8 12   丸山行雄、岸田劉生宅に書生として寄食
1920 大正 9 2 24 中川一政、鵠沼の岸田劉生を訪ねる
1920 大正 9 2 1 画家=椿 貞雄(1896-1957)、鵠沼八軒別荘に居住。岸田劉生と親交を結ぶ
1920 大正 9 4   丸山行雄、劉生の斡旋で尋常高等鵠沼小学校に就職
1920 大正 9     椿 貞雄、「鵠沼の或る道」(油彩・カンヴァス 38.0×45.6cm 宮城県美術館蔵)を制作
1921 大正10 3   ~5月、画家=棟方寅雄(1902-1992)、岸田劉生宅に寄食
1921 大正10 4 5 硲 伊之助、岸田劉生を訪問する
1921 大正10 9   画家=横堀角次郎(1897-1978)、品川区上大崎より鵠沼海岸2丁目中屋の貸し別荘に転居
1921 大正10     椿 貞雄、「鵠沼風景」(油彩・カンヴァス 45.5×53.0cm 平塚市美術館蔵)を制作
1921 大正10 12   ~1922.3、画家=棟方寅雄、岸田劉生宅に寄食
1922 大正11 6   横堀角次郎、中屋の貸し別荘から出て中屋の2階に間借り
1922 大正11 1   《春陽会》結成。木村荘八、岸田劉生、椿貞雄、中川一政、萬鉄五郎らを客員として迎える
1922 大正11     椿 貞雄、「鵠沼風景」(油彩・カンヴァス 53.0×45.5cm 星野画廊蔵)を制作
1922 大正11     横堀角次郎、「鵠沼風景」(油彩・カンヴァス 32.0×42.0cm 東京都現代美術館蔵)を制作
1923 大正12 1 椿 貞雄、八軒別荘を去る
1923 大正12 4   丸山行雄、結婚して東京に転居
1923 大正12 9 1 関東大震災により岸田劉生宅、倒壊。津波を恐れ、石上まで逃避。鈴木米店に避難する
1923 大正12 9 16 岸田劉生、鵠沼を去り名古屋へ出発。《草土社》事実上解散
1923 大正12 9   横堀角次郎、被災して鵠沼を去る
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 鵠沼を語る会:『鵠沼ゆかりの文化人』(2007)
 
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