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志賀直哉と鵠沼小説家=志賀直哉(1883-1971)は、1907(明治40)年10月、友人武者小路実篤と東屋に滞在、後に『白樺』を刊行することになった経緯は、第0163話で紹介した。以後も志賀直哉は1911(明治44)年と翌1912(大正元)年のそれぞれ秋に東屋に滞在している。ことに1912年には家族連れで訪れ、その時の様子を『鵠沼行(くげぬまこう)』という小品にまとめて、1917(大正6)年に発表した。 『鵠沼行』に見る鵠沼海岸『鵠沼行』:志賀直哉大船でサンドイッチを子供等に一つずつ買った。藤沢から電車に乗りかえた。鵠沼の停留場から祖母と赤児の禄子だけを俥に乗せ、あとは砂地の路を歩いて行った。東家に着いた。二階の広い部屋に通された。直ぐ向うに江ノ島が見える。小さい連中は喜んで縁へ出た。 鎌倉の連中は却々来なかった。「何してるのかしら。まささん(叔父にあたる順方を順吉は子供からの習慣でそう呼んでいた)が御寺へでも往っていたかな」 「お峰さんや、お泰さんがおめかしでもしてるんでしょうよ」と云って母は笑った。「腹が空いて了った」 「兄さんは朝御飯を食ぺずだから、空いたでしょう。昌子の手をつけないサンドイッチがありますよ」と母が云った。「もう来るでしょう」 女中を呼んで彼は昼の物を云いつけた。それから彼は小さい連中に、「御飯の出来る問、海の方へ往って見ようか」と云った。皆は喜んだ。 禄子だけ置いて、下駄を廻して貰って庭から出た。隆子は一人だけ真先に駈け出し、芝生の彼方のブランコヘ往った。皆は池のふちについて海へ出る木戸の方へ歩いた。池に舟が浮んでいた。「乗ろうか?」と順吉は淑子を顧みた。「乗りましょう。隆ちゃん。お舟に乗るのよ」と淑子は大きな声で隆子を呼んだ。隆子は直ぐ駈けて来た。「みんなしゃがんでるんだよ」女中共都合六人乗り込んだところで、「いいか?」と云って順吉は岸へ竿を張った。初めて舟に乗った昌子は中腰をして舟べりにつかまったまま、不安な真面目顔をしてその辺を見廻していた。「母ァさん」隆子が大きい透る声で遠い二階へ呼びかけた。 縁側に坐って、らんかんの間から頭だけ見せていた母が此方を向いた。母はらんかんにつかまって起ち上った。そして後を向いて何か云うと、祖母も縁に出て来た。母はハンカチをふった。祖母は小手をかざして見ている。「お祖母ァさん」と又隆子が大きな声をした。 昌子が一緒に「母ァさん」と呼んだ。 「橋だ橋だ。みんな頭を下げろ下げろ。吉枝、昌ァ公を抱け。手をはさむと大変だぞ。いいか」順吉は勢をつけて竿を一突っ張って、自分も頭を下げた。舟はすーっと水の面を滑って橋の下をくぐった。暫く漕ぎ廻ってから皆は舟から上った。そして小さい木戸から路へ出た。波の音が秋の穏かな空気に響いていた。皆は路から草の生えた砂原へ入った。少し行くと小さな流れに出た。人の足音で、小さい魚の一群が浅い流れを水底にうつる自身の影と一緒に逃げて行った。 「此処からは行けないな」順吉は流れの上下を見渡しながら云った。 「さっきの路をずーっと廻らなくちゃ駄目だ一兄さんがおぶってやろうかそれとも足袋を脱いで皆渉るか?」淑子と隆子が顔を見合わせて嬉しそうな顔をした。順吉先ず自分から足袋を脱いで袂に入れるとヒヤリとする黒い砂に立った。自分の足がいつになく白く見えた。皆もそうした。 昌子まで一人で足袋を脱ぎかけた。 「昌ァ公はそのままでいい。兄さんが抱いてってやる」こう云って抱き上げると昌子は黙って反りかえった。「いやか? お前も渉るのか?ころぶと大変だよ。いいおべぺが濡れちゃうよ」そう云っても昌子は黙って無闇と。反りかえっておりようとした。「吉枝、そんなら脱がしてやれ。それから俺の下駄を持って来てくれ」 昌子は嬉しそうに皆の真似をして、据を上げて流れへ入ろうとした。 「もっと、まくらなければ駄目だ」順吉は引きずりそうな長い快を背中で結んでやった。淑子に「もっと、もっと」と笑いながら云われて昌子は自分で、へその出るまで着物をまくった。淑子と隆子は声を出して笑った。「つべたいわ」と昌子は後からついて来る順吉を見上げて云った実際それは痛い程つめたい水だった。 流れを渉ると乾いた白い砂原へ出た。皆は裸足のまま草も何もない砂原を波打際の方へ歩いた。秋も末に近かったから海岸に遊んでいる客らしい人の姿は見なかった。皆は自家の庭で遊ぶ時のように顧慮なく笑い燥ぎながら行った。 波打際では皆裾をまくって、寄せる波に足を洗わして遊んだ。順吉は浅い所で波の寄せる間、昌子を抱き上げていて、その退く時、下してやっていた。昌子は後から持たれるのを厭がって、下すと直ぐチョコチョコと其処を離れて、独りでその足許を見て立っていたがった。 「倒れるぞ」と噸吉は云った。 「何だか眼が廻って来るわ」とわきで同じ事をしていた淑子が云った。 「こうやってると踵の下の砂がなくなるだろう?」「ええ、後へ倒れそうになるわ。昌ァちゃん。独りでそんな事をして、倒れたら大変よ。波にさらわれてよ」昌子は怒ったような眼をして淑子を見かえしていた。 石や貝を拾う事にした。小さい桜貝が沢山あった。 「皆おなかが空いたろう」と毛ずねを出して砂に腰を下していた順吉が暫くして皆に声を掛けた。 「隆ちゃんは少しも空かない事よ」と直ぐ隆子が答ええた。 「もう一時半だ。御飯を食べて若し早かったら江ノ島へ行って見よう」とにかく、帰る事にして順吉は昌子を呼ぴ、思い気ってまくり上げている着物を着せ直してやった。丸くふくれた小さな腹には所々に砂がこびりついていた。そうして身体だか、着物だか、もう磯臭いにおいがしていた。今度は流れを渉らずに橋から廻って帰った。池で順三が鎌倉から来た昇(昌子と同生年れ)を舟に乗せて遊んでいた。 引用文の冒頭に「大船でサンドイッチを子供等に一つずつ買った」とあるが、現在「鯵の押し寿司」で知られる《大船軒》は、1898(明治31)年創業の翌年、日本初のサンドイッチを大船駅で販売したことでも有名である。明治中期から飼育が盛んになった「高座豚」を原料にした「鎌倉ハム」を利用したものである。 当時の東屋(志賀は東家と書いている)の庭池には、橋の架かった中島があり、舟遊びにはスリルを味わえたこと。縁先から宿の下駄を履いて、「裏木戸」から海に出られたこと。引地川の下流部は子どもにも渡れるほど水深が浅かったことなどが読み取れる。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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