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鵠沼小学校移転鵠沼小学校は、《鵠沼学舎》として1972(明治5)年に開設以来、普門寺の境内に置かれて40年余を経たが、藤沢町成立を機に独自の校地確保の機運がようやく高まったようである。他校の例を見ると、藤沢小学校が御殿辺(べり)から現在地に移転したのが1901(明治34)年9月、明治小学校が現在地に移るのは、大震災で倒壊し、1928(昭和3)年ということは判明したが、それ以前の位置については未調査である。その前身は《読書院》であり、《耕余塾》として中等教育部門が私塾として残ったことは判明している。 尋常高等鵠沼小学校の学区では、1902(明治35)年の江之島電氣鐵道開通以来、別荘地の開発も軌道に乗り、人口も急増したのであろう。当初10教室の新校舎を建築する予定が、途中で3教室の増築が追加された。 新校地は、それまであった普門寺の向かいにあった水田を埋め立てたもので、校地の中央には農業用水が流れていた。正門は現在とは反対側の南側にあり、校門を出たところは、戦後の1950年代までは水田が残っていた。 校舎建築は地元の《大勝》こと加藤徳太郎が請け負い、1913(大正2)年の2月に起工し、6月には完工しているから、驚異的なスピードである。加藤徳太郎は、皇大神宮の人形山車の半分を制作した腕利きの大工で、この後鵠沼海岸別荘地の建築の中心となって活躍した。現在は元来の仲東に本拠地を戻している。 移転は1913(大正2)年6月20日に行われた。先頃103歳の天寿を全うされた大東の長老、關根佐一郎氏は、尋常1年生だったが、その時の喜びを昨日のことのように語っておられた。
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