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雑誌『白樺』雑誌『白樺』は、1910(明治43)年4月に創刊され、1923(大正12)年8月に廃刊された文芸誌・美術雑誌で、学習院出身者を中心とする同人は「白樺派」と呼ばれ、大正期の若者文化に大きな影響を与えたことで知られる。発刊の契機は、1907(明治40)年10月、学習院で同級生だった武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ)と志賀直哉(しが なおや)が旅館東屋に止宿して話し合ったことが発端だったと『志賀日記』にある。 1891(明治24)年から1911(明治44)年まで学習院の水練場が片瀬海岸(当時は鎌倉郡)にあったし、武者小路実篤は、兄の公共(きんとも)と、前年の1906(明治39)年に旅館東屋に2日ほど止宿しているから、二人にとって湘南海岸は身近な存在だったのだろう。 以後、学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908(明治41)年から月2円を拠出し、雑誌刊行の準備を整えたという。 初期の同人としては、武者小路実篤、志賀直哉の他、木下利玄(りげん)、正親町公和(おおぎまち きんかず)、有島武郎(たけお)らが知られ、柳 宗悦(むねよし)や岸田劉生(りゅうせい)も関わった。 文芸誌であると共に、ヨーロッパ美術の紹介にも積極的に取り組み、「大正デモクラシー」進展を背景に日本近代文学、芸術にエポックをもたらした。 小泉 鐵(まがね。一高出身)は雑誌『白樺』の編集を担当し、1914(大正3)年11月2日から1916(大正5)年10月まで鵠沼の字納屋(なんや、山口紋蔵家の家作だったと伝えられる)に移転して『白樺』の編集にあたるとともに「三つの勝利」ほかを書いたと『神奈川文学年表』にある。一方、「武者小路実篤記念館」の収蔵物には、1922(大正11)年8月14日付けの相州鵠沼納屋を発信地とする小泉 鐵が武者小路実篤に宛てた書簡があるそうだから、東京、逗子に転居した後、再び納屋に戻った時期があったのかも知れない。 志賀直哉は、柳 宗悦に呼び寄せられて1918(大正7)年から千葉県の我孫子に住む。武者小路実篤は、1916(大正5)年に短期間鵠沼に住んだ(このことについては別項を立てる予定)後、我孫子に居を移し、さらに1918(大正7)年に宮崎県児湯郡木城村(現・児湯郡木城町)に「新しき村」を建設し、自らも6年ほど住んだ。 かくして、柳 宗悦、志賀直哉、武者小路実篤の旧居のある我孫子市は、これら旧居を保存している。さらに、2001(平成13)年、㈱日本オラクル元社長・佐野力氏が私財を投じて、白樺派文学と民芸運動に関わる資料館として「白樺文学館」を創設した。この土地、建物、所蔵品など一切が市に寄贈され、2009(平成21)年4月1日から、我孫子市運営の「我孫子市白樺文学館」として再出発した。 雑誌『白樺』発刊の発端の地であり、その編集が行われ、中心人物が居住した鵠沼には、それらを示す証拠は「東屋の跡」記念碑の説明板にある2行以外はどこにも見当たらない。「文学館」でもあれば、その一隅にでも「鵠沼と白樺派」コーナーを設けることができると思うが、文学館はおろか、公立の博物館も美術館も持たない全国唯一の40万都市、藤沢市にはそんなことを期待する方が間違っているのだろうか。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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