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第0178話 鵠沼文化人百選 その005 武者小路実篤

プロフィール

 1910(明治43)年、志賀直哉らと同人雑誌「白樺」を創刊。同誌その他に小説「その妹」などを発表し、白樺派の代表的作家として活躍した。姓は「むしゃのこうじ」が元来だが、本人は「むしゃこうじ」と称したというので、それに倣う。
 トルストイに心酔し、1918(大正7)年には、調和的共同体の理想を実現すべく、宮崎県の僻村に「新しき村」を建設した。実際に宮崎に居住したのは初期の数年という。
 戦後は公職追放の処分を受け、勅撰議員と芸術院会員を辞したが、1952(昭和27)年芸術院会員に復帰し、その前年に文化勲章を受賞した。

鵠沼とのゆかり

 1907(明治40)年から1909(明治42)年にかけて、旅館東屋に志賀直哉としばしば滞在して同人雑誌「白樺」の想を練ったといわれる。
 おそらく文士宿東屋を最も愛した文人で、1906年、1907年、1909年、1911年、1914年、1935年、1938年、1939年に止宿、滞在の記録が残るが、それ以外にも鵠沼来訪の際には東屋に止宿したと思われる。旅館東屋には1939(昭和14)年廃業後も訪れ、最後の経営者長谷川欽一の良き相談相手となっていた。
 唯一東屋以外を利用した記録としては、1912(明治45)年6月1日にのちに妻となる竹尾房子と鵠沼館で昼食をとり、11月『世間知らず』として発表した例がある。
 この時に結ばれた妻房子、養女喜久子とともに1915(大正4)年には、江ノ電鵠沼停車場に近い芳藤園(佐藤別荘ともいうが、佐藤別荘は他にもあり、ことに岸田劉生が最初に住んだ佐藤別荘と混同する例がしばしば見受けられる)に暫く住み、戯曲「その妹」その他を執筆した後に、東仲通り(天金通り)の川元別荘に移って約10か月居住している。
 鵠沼を去ったのは1915(大正4)年9月5日と1916(大正5)年2月の2説がある。

武者小路実篤鵠沼関係年譜
    
西暦 和暦 記                        事
1906 明治39 4 6 小説家=武者小路実篤(1885-1976)、兄=公共と鵠沼に行き2泊する
1907 明治40 10 18 武者小路実篤(~23)、志賀直哉(~26)と東屋に滞在して『白樺』発刊を相談
1909 明治42 3 4 東屋に4日間滞在。後に『お目出たき人』に作品化
1911 明治44 2 21 東屋より志賀直哉宛書簡を出す
1912 明治45 6 1 竹尾房子と鵠沼館で昼食をとる。11月『世間知らず』として発表
1914 大正 3 12 30 ~1915/1.12、東屋で越年。戯曲『その妹』の執筆を開始
1915 大正 4 1 12 東屋から妻房子、養女喜久子と芳藤園に移り、戯曲『その妹』などを執筆
1915 大正 4 4 18 これ以前に旧鵠沼下岡6708の川元別荘に転居
1915 大正 4 4 25 小説家=有島武郎、鎌倉から鵠沼に行き、東屋で実篤に会う
1915 大正 4     画家=岸田劉生(1891-1929)、実篤を訪う
1915 大正 4     作家・画家=有島生馬(1882-1974)、実篤を訪う
1915 大正 4     江馬 修・長與善郎・木下利玄・千家元麿・林 和、実篤を訪う
1915 大正 4 8 15 歌人=木下利玄(1886-1925)、実篤宅に寄り、長与善郎・小泉鐵・岸田劉生らにも会う
1915 大正 4     小説家=杉原善之介、武者小路実篤を慕って鵠沼に借家(川元別荘?)→後に片瀬に移る
1915 大正 4 9 5 実篤一家、鵠沼川元別荘から東京千駄ヶ谷へ転居※1916.2とも
1916 大正 5 2   実篤一家、鵠沼川元別荘から小石川区小日向台町に転居※1915.9とも
1920 大正 9 5 8 鵠沼に岸田劉生を訪ねる
1920 大正 9 9 29 実篤夫妻、編集者=中根駒十郎(1882-1964)と岸田劉生宅を訪問
1935 昭和10 11   ~12.10、東屋に滞在して執筆
1938 昭和13 1   ~6月、東屋に滞在して執筆
1939 昭和14 3 16 ~23、東屋に滞在して執筆
1940 昭和15 6 ~23、廃業後の東屋に滞在
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 鵠沼を語る会:『鵠沼ゆかりの文化人』(2007)
 
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