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農會と漁業協同組合農會(のうかい)とは、1899(明治32)年の農會法によって公認された農業団体。町村・郡・府県と系統的に設けられたことから、系統農会とも称される。これを受けて、翌1900(明治33)年10月8日、鵠沼村では「鵠沼村農会」が設立された。(会長=斎藤弥五右衛門、代表者=山上三之助) 続いて1902(明治35)年7月に漁業法に加行され、県の管轄で沿岸漁場区面制定、漁業組合の設立が奨励される一方、網元の登録、認可、漁場の制限が加えられた。 これを受けて、鵠沼村では同年12月20日に「鵠沼浦漁業協同組合」の設立が認可された。(組合長山上八造(宿庭)、幹事横田原太郎(苅田)組合員10名) 1906(明治39)年における鵠沼地区の甘藷収穫高=90万貫、繭生産高=1,528石、牛=12頭、馬=20頭、豚=52頭、家禽=2,400羽という統計数値が残っている。助郷村の名残か、牛より馬の頭数が多いのが興味深い。大正に入ると保養地という性格が本格化すると共に、牛乳や鶏卵の需要が伸び、酪農家や養鶏場経営が増加する。 1908(明治41)年4月1日、高座郡藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併して藤澤町となったことによって農會も合併し、「藤澤町農會」となった。 また、この年9月から尋常高等鵠沼小學校に付設して鵠沼実業補修學校が開講した。これは1903(明治36)年の専門學校令を受けたもので、特に農村部における既に職業に従事している青少年に対する実務教育機関としての役割を担っていた。 実業補修學校は、1935(昭和10)年に公布・施行された青年学校令によって設立された青年学校に切り替えられた。 さらに1912(大正元)年、高座郡地主會が組織された。 このように、19世紀末から20世紀初頭にかけて、第一次産業の近代化への取り組みが住民の自治組織、教育面で推進された。これは、鵠沼村が自給的な農村から商業的な近郊農村へと変貌する姿だったといえよう。 藤澤町外二箇村聯合耕地整地組合境川の「奥田堰」記念碑には「明治四十二年十一月合併を期に藤澤町外、二箇村(六会村大正村)聯合耕地整理組合が発足し水田、河川の整理が進み」とある。 これによって、耕地整理と河川改修が取り組まれた。 先ず、1910(明治43)年7月に片瀬川河口部の改修工事が完成する。 実際に奥田堰が完成するのは、関東大震災後の1924(大正13)年のことである。 甘藷仲買商と網元第一次産業の商業化の表れとして、産物の流通を担う人々が活動し始める。鵠沼村の場合顕著だったのは、甘藷(サツマイモ)の仲買人と地曳き網の網元や水産物仲買拠点(寄り場)の設置である。これらが開設されたのは、早いものは明治初頭といわれるが、正確な記録はほとんど見当たらない。有賀密夫氏の屋号調査記録に記されている甘藷仲買商と網元の分布図を作ってみた。 | ||||||||
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