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齋藤緑雨齋藤緑雨(1868-1904)は明治時代の小説家・評論家である。本名・賢(まさる)。「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。胸を病んだ斎藤緑雨は1900(明治33)年の10月23日から鵠沼に転地し、東屋で療養した。 この頃の緑雨は、もはや作品を生み出す体力がなく、東京で同輩や弟子筋にあたる小杉天外らが話題作を書いて注目を浴びているので、焦燥感が募るばかりであった。鵠沼の寂しさもあり、在京の知人に会いに来いと何通も手紙を出している。その結果、わざわざ鵠沼まで緑雨に会いに来た知人には、歌人=與謝野鉄幹(1873-1935)、小説家=馬場孤蝶(1869-1940)、小説家=徳冨蘆花(1868-1927)が判明している。 緑雨は極めて辛辣な評論で知られ、皮肉屋でもあった。多くのエピソードが遺っているが、東屋時代のものとしては、 女将=長谷川ゑいが元旦にあいさつに行くと、緑雨は一間もある巻紙を出した。それは箇条書きの注意で廊下に落ちていたゴミまで書きとめてあった。 また、「按ずるに筆は一本、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」という名言を遺している。 東屋の女中頭=金澤タケが、半ば押し掛け女房のような形で一緒になり同棲をする。 1901(明治34)年の4月12日にタケの実家である小田原の緑新道507番地へ引越して所帯を持ち、2年間療養後、再び東京に帰って来たが、病床に臥す日が多く、生活は苦しくなるばかりだったという。 1904(明治37)年4月13日没、 享年36。緑雨は死の直前に、勤めていた新聞社に死亡広告をだすよう依頼した。その広告文は「僕本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也 四月十三日 緑雨斎藤賢」 なお、第0022話で1901(明治34)年の『東京人類学会雑誌』第16巻181号に「鵠沼村字下藤ヶ谷で新遺跡発見」という八木奘三郎の記事が掲載され、鵠沼地区における遺跡発掘に関する最初の記録となっていることを紹介したが、八木奘三郎に下藤ヶ谷で土器が見つかるということを教えたのは齋藤緑雨だったという。土器のいくつかは東屋に飾ってあったと伝えられるが、その後どうなったかは不明である。 | ||||||
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