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『思出の記』に描かれた鵠沼村「文士宿」東屋に文士が滞在して盛んに執筆活動をするようになっても、彼らの作品の中に鵠沼の光景が描かれた例はさほど多くない。著名な作家の作品に鵠沼の光景が描かれた例の嚆矢は徳冨蘆花の『思出の記』だとされる。 蘆花は小説『不如帰(ほととぎす)』で世に出たあと、名エッセイとして知られる『自然と人生』に続いて自伝的長編小説『おもひ出の記』を1900(明治33)~1901(明治34)年、《國民新聞》に連載した。これが1901(明治34)年5月、《民友社》から刊行された時に『思出の記』と改題されたのである。なお、この時の著者名は本名の德富健次郎を用いている(富はウ冠であることに注意)。 この作品の中で、鵠沼村の光景を描いた部分を抜き出してみよう。 高木和男氏は『鵠沼海岸百年の歴史』の中で、これは1889(明治22)年頃の鵠沼の姿を描いたものだと述べておられる。鐵道開通後間もない頃であることは確かなようだ。 「藤澤停車場に着いたのは、午後の五時過ぎであつた。江の島行の汗臭い白衣道者の中にまぢつて、汽車を下りる途端、忽ち眼についたのは、柵外の人待顔の海水帽三つ。驚破と胸は躍る、眼は彼三つの帽に注ぐ。彼方も僕を認めて、六個の眼斉しく笑を帯びて輝やいた。松村兄妹に鈴江君だ。」 当時の藤澤停車場は単線で、プラットホームは北側にしかなく、従って北口の光景である。髙木氏は、主人公は下り列車に乗ってきたはずで、江の島行の汗臭い白衣道者は大山帰りで、平塚から上り列車に乗ってきたはずだから「白衣道者の中にまぢつて」ということは、上り下りが同時に到着したのだろうと、細かい推定をしておられる。とすると、交換駅ということで、プラットホームは北側にしかない(当時の写真では)のはおかしいことになる。 「僕等男は先に立ち、兩女史は僕等が蹴立てる砂ほこりを笑つて袂で拂ひながら後に從ひ、線路を踏み切つて少し行くと」 道路はもちろん未舗装で、砂ほこりは海岸平野の道路の特徴である。線路に沿って西へ向かい、「一本松踏切」(現在の小田急線鉄橋下)を渡ったのだろう。 「僕等は砂だらけの桑畑、大豆畑、甘藷畑の間をくねる一條の砂路を話し話し緩歩した。」 砂だらけは海岸平野の特徴で、よほど印象深かったのだろう。クワ、ダイズは古くからあったが、甘藷は明治初期に導入され、たちまち鵠沼名物になった。一本松踏切を渡ってから、江の島裏街道と分かれた西に「仏堂道(ほとけどうみち)を辿るのが当時の道筋である。このルートは、普門寺の門前を左折して「本道(ほんみち)」を清水、苅田、原と辿るのがメインルートだった。しかし、主人公らは今の花立公園から左折し、大東から仲東、原と辿る近道を通ったと思われる。なぜなら、次に出てくる「村に入って五六丁」という距離が合うことと、普門寺の門前は1913(大正2)年に鵠沼小学校用地になるまでは水田であり、本文では畑しか書かれていないことによる。 「夕日弱つて蝉の音猶残る村に入つて五六丁、路は二筋に岐れて、羽黒山云々と鐫つた供養塔が立つて居る。」 これは明らかに本鵠沼4-13-22地先の「原の辻」の光景で、「羽黒山云々と鐫つた供養塔」は現存する。鵠沼ではここにしかない。出羽三山供養塔は1809(文化6)年設置の高さ159cmという堂々たる石柱だから、いやでも目につく。ここには他に1795(寛政7)年の 四国三十三所供養塔と1753(宝暦3)年の青面金剛像浮彫の庚申塔小祠も並んでいる。少し前まで脇に大木があって、その根が石塔を傾けてしまったので、2005年1月、近隣有志が木を伐採し、整地して石塔群を整備したところである。 「「少しまはりだが先一寸寄りたまへ、鵠沼一と云ふ水があるから」 と松村が云ふので、僕等は右に折れてまた一二丁、椿、珊瑚などの雑つた寒竹垣の絶間から、唯有る農家の庭に入つた。養蚕をすると見へ屋根窓を開いた大きな農家だ、庭の一隅には、農家の風流、小さな花壇に桔梗天鵞絨草鹿子草鳳仙花など咲いて居る。左手の納屋の側には、三四羽の鶏が乾麦をほじくり、 右手の欅の枝から枝に海浴衣、手拭などが乾してある。椽前に立つて、石川(松村の親類)の細君に挨拶して居ると、お敏君が手早く其所謂鵠沼一の水に、白糖を和し橙皮油を落して持つて来た。 あヽ其水!今思つても實に慄ひつくほど。但僕は其香を聞くと夢の様な気になつて、僕が水を飲むだか、水が僕を呑むだか、其点は今に到るまで些分明を訣ぐのである。」 原の辻から左に行くと、堀川の三叉路から「浜道」になる。そちらに向かわず「少しまはりだが」「僕等は右に折れてまた一二丁」、「鵠沼一と云ふ水」を飲みに行くのである。この農家がどれかを推定し、髙木氏は堀川の葉山家であろうと結論を出された。 「中島叔母の寓は、松村兄妹の居を東へ距る二丁ばかり、小奇麗な農家であつた。家族は叔母、鈴江君、不二男と云ふ當年五歳の男児、其保姆なり婢なりのお吉、此れだけである。 吾室と與へられた東向の六畳に草臥れた五尺の体横たへて、青蚊帳に通ふ松風、波の音、颯々たる天籟に夜一夜夢を洗はれ、明日は早起して裏へ立出で、藤豆に朝顔の分く由もなくからむだ棚の下に暁の星を浸した浅井の清水汲みあげて顔を洗ひ、南瓜畑甘藷畑の向ふに見ふる片瀬の山々次第にはつきりと朝の空にわかれ行く清々しい景色に見とるヽ時」 主人公が滞在した農家は、海に最も近い納屋集落にあったと思われる。 「早出の農夫に道を譲つて、浅茅にまぢる昼がほの花の露したたか蹴散らし、夢といふものの色はそんなものであらうと思はるる、あを白いもやのまだ枝より枝へはう松原をうがつては、浴衣も染まるほど満身の露を浴びて濱へ出た。清すがしい朝景色だ。海はほの白うしてまだ光なく、ついむかひの江の島も睡げに、右手に延いた長汀の松の梢の富士、箱根、足柄、大山、何れも薄つすりと夢さめあへぬ風情」 引地川左岸には松林が続いていた。それを抜けて、欄干もない木橋の「龍宮橋」を渡って渚に向かったと思われる。 「不圖氣づけば日が大分高うなつてゐたので、僕等はやをら立上つた、鵠沼館の横手の松原をぬけると、お敏君が鈴江と僕等をたづねてくるのに、はたと行きあつた。」 鵠沼館は現在の鵠沼公民館の南方にあった。徳冨蘆花自身、鵠沼館に宿泊したようである。第0146話の年表にもあるように、1901(明治34)年2~3月のことであり、連載は後半に入っていた。この時、東屋に滞在中の齋藤緑雨を訪ねているが、東屋に泊まったかどうかは判らない。 | ||||||
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