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清水集落清水は、宮ノ前の南側にある集落で、比較的まとまっているが、鉄道開通によって北部が分断された。苅田の分家が数軒入り込んでいるため、境界線が複雑である。東端に普門寺があり、かつての境内地は現在の倍近くあり、明治時代には鵠沼学校の校舎も境内にあった。南西部は引地川が東に曲流していたといわれ、その跡は「池袋」と呼ばれていたらしいが、今やそれを知る人は少ない。引地川には「清水橋」という小さな橋が辻堂村と結んでいる。これはかなり古くから架けられていた。この辺りの引地川は、清水川と呼ばれていた。 現在、清水橋の上流の辻堂側には「親水広場」が設けられており、川には瀬が見られる。河口からここまでは瀬がなく、時折「湘南カヌースポーツクラブ」の子どもたちがカヌーでやってくる。ここまでが感潮河川なのである。そのため、かつては舟運の拠点、すなわち港が置かれていたのではないかともいわれている。 清水の明治初期の戸数は20戸であったが、姓別では渡邊4戸、關根3戸、淺場・近藤・高橋・山上各2戸、生田(普門寺)・小菅・小林・齋藤・宮崎各1戸と、かなりばらつきがある。後に商店や網元になる家もあった。 清水の人形山車清水は、祭礼の人形山車参進では三番山車を務める。神前に幟を立てる4町内の一つでもある。人形の神武天皇は左手に弓を持った立ち姿で、弓の先に八咫烏が止まる。右手に2本の矢を持つ。八咫の鏡を額に掛けて胸元に下げる。腰に剣を侃く。 清水の人形山車の概要をまとめてみると、次のようなものである。
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