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現金収入の増加かつての鵠沼村、ことに本村は自給的な半農半漁村だったから、ほとんどのものは自給自足で、商店が店を開いていなかった。東海道に沿った引地や渡船場のあった石上には、旅人を相手にする茶店や土産物店などが店を並べていたと思われる。 有賀密夫氏の調査した屋号には、「仕立屋」「玉子屋」「時計屋」「烙炉屋」「たねや」「豆腐屋」「らうや」「油屋」「桶屋」「酒屋」「醤油屋」「豆屋」「臼屋」などが見られることから、店舗は構えていなくても、農業以外の収入を得ていた存在が窺い知れる。 明治も中期にさしかかる頃から、農家の現金収入が増加したと見られる。理由の一つは農業の商業化である。モモやサツマイモといった商品作物のブランド化、生糸貿易の伸展に伴う養蚕業の導入などである。 もう一つは鉄道建設を初めとする賃仕事の増加が挙げられる。用地買収に伴う現金収入もあったであろう。 こうした農家の現金収入増加に伴い、農村集落の中に店舗を開くケースが現れる。 農村のコンビニ「万屋」それは、酒や煙草、荒物雑貨、薪炭類、文房具、郵便切手やはがきなど多種類の商品を扱うほか、季節によっては盆花や提灯、輪飾りなども扱っていた。現代のコンビニエンスストアーのようなもので、「万屋(よろづや)」と呼ばれていた。明治末期に塩や煙草の専売制が始まると、その役割は重要なものになった。 戦前の万屋については明確な記録を見つけていない。下は戦後まで残った万屋的性格を持っていた店舗だが、あるいはもっと各集落毎位にあったかも知れない。屋号を見る限り、鵠沼本村に見られた姓は少ない。ということは、転入者が開業したと考えられる。 ここで紹介したのは、独立した店舗として商店街などを形成していなかったものを中心にしている。大正期に入る頃から鵠沼でも各所に商店街が形成され、そこでも酒店などを中心に類似の商業形態が見られるようになったが、ここではあえて農村部に散在するものを取り上げてみた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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