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皇国地誌1879(明治12)年2月に刊行された『皇国地誌鵠沼村誌』には、田=66町、畑=219町とある。戸数は平民297戸とあるのみで、職業は明確でない。大部分が第一次産業従事者であったであろうから、平均所有耕地面積は1町歩程度であったと考えられる。 明治初期の鵠沼村の農家有賀密夫:「明治初期の鵠沼村」『わが住む里』第43〜45号(1992〜1994)によれば、一握りの富農層と大多数の貧農層に二分されていたようである。平均所有耕地面積は1町歩程度であったとしても、1町歩以上の土地所有者は、30戸弱に過ぎず、10石以上の生産者は16戸だった。残りの大部分は1〜3反程度の土地所有者が多く、その大部分は自小作農だったと思われ、生産も4石以下で、1石以下の戸数が94戸と最も多い。1石以下ということは、自家消費分にも不足するという階層である。当時の鵠沼村の大地主は原の淺場太郎右衛門、宿庭の關根傳左衞門、苅田の齋藤六左衞門、仲東の熄シ祐重が抜きん出ていた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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