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第0101話 鵠沼学舎

 学制(がくせい、明治5年太政官布告第214号)とは1872(明治5)年9月5日(8月3日)に公布された、日本で最初に学校制度を定めた教育法令である。教育令(明治12年太政官布告第40号)の公布により、1879(明治12)年9月29日に廃止された。第20章からは小学校について定めており尋常小学、女児小学、村落小学、貧人小学(仁恵学校)、小学私塾、幼稚小学、廃人学校について規定している。尋常小学校は下等4年、上等4年に分けられた。但し、幼稚小学は実現に至らなかった。

現藤沢市域における初等教育の開始

 現藤沢市域では学制発布の前から尋常小学が開校している。
 羽鳥村の名主=三觜八郎右衛門の招聘によって儒学者=小笠原東陽が羽鳥村に私塾「読書院」を開いたのが1872(明治 5)年4月のことであり、学制発布により、翌年4月に初等教育部門が「羽鳥学校」となり、羽鳥村の尋常小学校となった。中等教育部門は「耕余塾」として数多の逸材を輩出することになる。
 次いで7月12日に普門寺の物置に鵠沼学舎が開設された。
 8月の学制発布以後、直ちに藤澤宿に成美学舎が開かれ、翌1873(明治 6)年に村岡学舎、用田学舎、江島学舎が開校し、翌々年には臨海学舎が開設された。

鵠沼学舎

 鵠沼学舎は1872(明治 5)年7月12日に開設され、現藤沢市立鵠沼小学校に続くわけだが、同校ではこの日付を開校としている。従って、藤沢市立の小学校としては最古の学校ということになる。
 しかし、鵠沼学舎は普門寺脇の寺の物置を校舎に開設されたもので、当初は習字だけを教えていたとされるから、普門寺の寺子屋が移行した程度に過ぎなかったのではなかろうか。
 学制施行の翌年、上等科が新設(下等科4年・上等科4年)され、一般学科を教授するようになる。児童数も増えたであろうから、校舎も改築されたかと思われる。
 1877(明治10)年5月22日に第87番小学鵠沼学校と改称され。訓導=久木元寿、助教3、生徒133名という記録が残っている。これまでが鵠沼学舎の時代である。
鵠沼学舎年表    
西暦 和暦 記                        事
1872 明治 5 4   小笠原東陽、羽鳥に私塾「読書院」を開く
1872 明治 5 7 12 鵠沼学舎、鵠沼普門寺脇の寺の物置を校舎に開設。当初は習字だけ
1872 明治 5 8 3 学制を布く。下等小学校4年、上等小学校4年
1872 明治 5 11 10 成美学舎、開設
1873 明治 6     鵠沼学舎に上等科新設(下等科4年・上等科4年)される。一般学科を教授。校舎も改築か
1873 明治 6 4   「読書院」を羽鳥学校と改称
1873 明治 6 6   村岡学舎、弥勒寺に創立
1873 明治 6 11   用田学舎、用田鳥居前の旅館を借用して開設
1873 明治 6     江の島に江島学舎が開校
1874 明治 7 4   臨海学舎、片瀬村本蓮寺に創立
1874 明治 7 8 29 成美学舎、平野町に校舎を建設し、公立小学校藤沢小学校、別名「御殿小学校」と称す
1877 明治10 4   辻堂学校、開校
1877 明治10 5 22 鵠沼学舎、校舎を新築、第87番小学鵠沼学校と改称。訓導久木元寿、助教3、生徒133名
1878 明治11     発蒙学舎(腰越村小動岬の浄泉寺境内)、片瀬村龍口へ移転し龍口学校と改称
1882 明治15 5 25 用田学舎、現在地(打戻1902番地)に移転
1884 明治17     龍口学校、腰越に戻り腰越学校と改称
1886 明治19 4 10 小学校令公布尋常4年、高等4年となる
1887 明治20 4   羽鳥学校、小学尋常羽鳥学校、辻堂学校、小学尋常辻堂学校と改称
1890 明治23 10   鵠沼村の役場費=317円37銭。教育費=217円05銭
1892 明治25 3 19 鵠沼学校、尋常鵠沼小学校と改称(勅令第215号改正小学校令)
1892 明治25 4   小学尋常羽鳥学校、小学尋常辻堂学校と合併し尋常日進小学校と改称
1892 明治25 5 28 用田学舎、尋常高等御所見小学校と改称
1901 明治34 2 13 臨海学舎、鎌倉尋常高等川口小学校と改称
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市教育委員会:藤沢市教育史 史料編 第一巻
 
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