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韮山県から神奈川県へ明治維新は新政府にとって試行錯誤の時代だった。先ず1868(慶応 4)年6月29日、鵠沼村の属する高座郡の幕府領、旗本領は、藤澤宿代官江川太郎左衛門英武が県知事に任命された韮山県に属した。それもつかの間、年号が明治に改まった3か月後の9月21日に神奈川府が神奈川県となると、高座郡内が横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申により全域が神奈川県に移管された。1871(明治 4)年の廃藩置県を期に同じ理由から三多摩も神奈川県に属した。 1871(明治 4)年7月14日の廃藩置県では、小田原藩、荻野山中藩、六浦藩がそれぞれ小田原県、荻野山中県、六浦県となったが、同年11月14日には韮山県の相模国分・小田原県・荻野山中県の相模国分が合併して足柄県となり、六浦県は神奈川県に含まれることとなった。 1876(明治 9)年4月18日の第二次大廃合で足柄県と三多摩を含む神奈川県が合併し、神奈川県となった。 三多摩における自由民権運動が高まると、その分断の狙いもあって1893(明治26)年に三多摩は東京府となって神奈川県から分かれた。これによって神奈川県はほぼ現在の姿になる。以後、東京湾岸の埋め立てによって面積は若干増えた。鵠沼村域は1868(明治元)年9月21日以来神奈川県に属して今日に至っている。 年番名主から戸長へ維新によって各集落毎の名主層の整理が行われた。先ず1868(明治 2)年、年番名主制という年によって名主層が輪番で村を代表する名主その他重要な役割を担う制度ができた。初年度は年番名主=小林三左衛門(清水)/年寄=齋藤六左衛門(苅田)・山上八左衛門(宿庭)/組頭=関根庄左衛門(引地)、次年度は年番名主=六左衛門/年寄=八左衛門・三左衛門/組頭=庄左衛門といった具合である。 この制度は1872(明治 5)年4月9日までで、以後、戸長・副戸長という制度になった。 区・番組制→大小区制→郡区町村編成法→市制町村制翌1873(明治 6)年、神奈川県は区・番組制を施行し、鵠沼村は第17大区・第2小区となった。一方、この時小字・番地の制定も行われた。さらに1874(明治 7)年、大小区制に切り替え、鵠沼村は第18大区第2小区となった。 そして1878(明治11)年、郡区町村編成法の公布に伴い、大小区制は廃止され、神奈川県は1区15郡となり、郡に郡長、町村に公選の戸長をおくようになり、鵠沼村は高座郡に所属する。 1884(明治17)年の郡区町村編成法の改訂に伴い、鵠沼村は羽鳥、大庭、稲荷、辻堂と連合し、官選となった戸長には羽鳥村の三觜小三郎が就任した。 これも5年ほどで、1889(明治22)年には市制町村制が施行され、鵠沼村は連合組織から分れ1村で独立し、役場を字中井(現鵠沼小学校周辺)においた。村長には関根庄左衛門(引地)、助役には熄シ祐重(仲東)、収入役には山口房次郎(大東)が就任している。
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