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第0099話 東征軍通過

米価騰貴と打ち壊し

 江戸時代から明治時代への転換期、慶応年代は、3年ほどの短期間ながら物情騒然とした時代だった。この時代、鵠沼村に関する記録は案外少ない。
 藤澤宿には多くの記録が残っていることから、それに隣接する鵠沼村も少なからぬ影響を受けていたであろうことは、想像に難くない。
 1866(慶応 2)年には米価が高騰し、藤澤宿でも貧民が徒党を組み、打ち壊しが行われ、組織されたばかりの農兵が出動するなどの事件が起きている。 

神符降りとええじゃないか

 1867(慶応 3)年には将軍徳川慶喜が大政を奉還し、薩長勢力は天皇を担ぎ出して王政復古の大号令が発せられ、 新しい政治組織が組み立てられた。
 250年余りにわたる徳川政権の崩壊は人心に動揺を来したのか、神宮のお札が降ってきたとか、「ええじゃないか」が流行するなどの物情騒然とした情勢は藤澤宿にも及んだが、鵠沼村は比較的平穏だったらしい。

官軍東征軍、藤澤宿を通過

 1868(慶応 4)年、薩長勢力は官軍を組織し、江戸へ向かって進軍する。官軍が藤澤宿を通ったのは3月上旬だったが、未曾有の大軍通過のために、藤澤宿では宿郷村を総動員しても間に合わないほどの過大な負担を強いられた。
 また、この時期には高座・鎌倉・大住3郡の村民が徒党を組み、借用金の返済期限を延ばす嘆願書を提出するなどの騒動があったり、名主などの富農層を狙った盗賊が跋扈するなど物騒な時代だったが、こういった中にあっても鵠沼村は比較的平穏だったらしい。
 東征軍の司令長官だった有栖川宮熾仁親王は、藤澤宿通過の際、皇大神宮に御染筆を賜り、現存するという。
慶応年間の藤澤宿周辺年表    
西暦 和暦 記                        事
1865 慶応 1 10 8 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳]
1865 慶応 1 12   鵠沼村から名主・組頭・百姓代百姓各2名が農兵相続仕法講に加入
1866 慶応 2 2   薩長同盟
1866 慶応 2 5   米価騰貴し、大久保町の貧民が集結して米価の低下を強要
1866 慶応 2 6   長州征伐
1866 慶応 2 8   「打ち壊し」により大鋸町の穀商が襲われ、鎮圧のために農兵が出動
1866 慶応 2 10 25 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳]
1867 慶応 3 1   征長停止の布告
1867 慶応 3 3 14 大政奉還
1867 慶応 3 11 6 宿内蒔田家の子どもの懐中から神符が発見され、騒ぎとなる
1867 慶応 3 11 11 助郷会所に八幡宮の札が降る 
1867 慶応 3 11 12 助郷会所より各助郷村に「ええじゃないか踊り」に関する廻状が出される 
1867 慶応 3 12 9 王政復古の大号令
1868 慶応 4 1 3 鳥羽・伏見の戦い
1868 慶応 4 1 6 将軍徳川慶喜、海路江戸へ向かう
1868 慶応 4 2 15 官軍東征軍、江戸城侵攻に出発
1868 慶応 4 2   〜3月、高座・鎌倉・大住3郡の村民が徒党を組み、借用金の返済期限を延ばす嘆願書を提出
1868 慶応 4 3 官軍東征軍、藤沢宿を通過
1868 慶応 4 3 18 新政府、名目金貸付の禁止令発布
1868 慶応 4 3 29 羽鳥村名主三觜家に盗賊が侵入、金子106両余と刀剣が盗まれる
1868 慶応 4 4 11 江戸城、無血開城
1868 慶応 4 5   新政府、小田原城に「相模国監察府」を設置
1868 慶応 4 7   羽鳥村で名主の持ち山の松が小前に伐採される事件が起こる→相模国監察府に提訴
1868 慶応 4 7   新政府、小田原に「豆相軍監」を設置した旨の廻状を出す
1868 慶応 4 8 10 豆相監察局、名目金貸付は、以後小田原出張監察局に届け出るよう触書を出す
1868 明治 1 9 8 明治に改元
1868 明治 1 9   征東大総督一品中務卿有栖川宮熾仁親王御東下の砌、皇大神宮の御染筆を賜る
1868 明治 1 10 10 東幸の明治天皇、藤沢行在所(遊行寺)に止宿
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市:『藤沢市史』第五巻(1974) 
 
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