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『新編相模国風土記稿』には「○神明宮 村民持」とあるのみだし、『我棲里』にも「神明宮森 鵠沼村にあり、森のうちに、神明天照皇太神鎮座まします、当社ハ、むかし奈須与市宗高、元暦の闘ひに扇の的を射る時、一心に天照太神を祈念し奉り、難なく其的を射て落し、誉れを一天にあげしより、常陸国真壁郡に母方の所縁あるに依て茲に太神宮を勧請せりと云伝ふ、その時の弓なりとて、農家に伝来す、また、この森の辺を奈須野とも呼で、この原の雲雀ハ、野州奈須野にひとしくて他所の産よりハ声うるハしく、御片脚短かきを証とするよし、我去ぬる年駿河の駿東郡原の駅に遊びし時、鳥を飼人の物がたりに聞けり 」と、鎌倉時代前の那須与一の話を中心に取り上げている。 これは、社伝に「延享年間、盗難により伝承の古記録等を失う」とあることとも関係すると思われる。 幕末の皇大神宮幕末になると、皇大神宮に関する「物的証拠」がいくつか出てくる。その一つは、1822年から1864年にかけて、境内に灯籠が4対奉納されたことである。 もう一つは、皇大神宮に近い4町内が、祭礼用の幟を奉納したことである。 皇大神宮の祭礼は毎年8月17日に催行される。人形山車の巡行が有名だが、これは明治20年頃からの風習で、それ以前の祭礼については、細部は判明しない。恐らく湯華神楽は奉納されていたであろう。 幟立ては恐らく幕末から今日まで、この4町内が行っている。 8月14日夕刻に、宮ノ前、上村(かむら)、宿庭、清水の北部4町内は、参道両側に各1対、計8本の幟を立てる。 幟は横幅が3尺8寸=114cm。長さは41尺=12m。柱の長さが15.8m、その上部に依代(よりしろ)の榊(さかき)がつくので、18m以上の高さになる。 明治初期の皇大神宮明治新政府は尊皇派によって形成され、廃仏毀釈など国家神道への取り組みが進められた。1871(明治 4)年5月14日(この段階では旧暦。新暦では7月1日)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により各神社の社格が制定された。 破格の伊勢神宮を頂点に、官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、さらに府県社、郷社、村社という格付けをしたものである。国幣小社以上は官社または官国弊社とされて、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社である。後に別格官幣社という格付けもなされた。それ以下の各社は諸社に分類され、それ以外は無格社とされた。 鵠沼の皇大神宮は、1873(明治 6)年12月に村社に格付けされた。ごく一般的な「村の鎮守の神様」の扱いである。
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